アイユーブ朝のスルタン、サーリフは、病の身を押し、ダミエッタ南西のマンスーラに陣営を構えて、迎撃の準備に取り掛かった。

 しかし、11月にサーリフは、死去してしまう。

 王妃のシャジャル・アッ=ドゥッルは、サーリフの死を伏せて、シリアの辺境を守備中のトゥーラーン・シャーの帰国を待つことにしたのである。

 トゥーラーンは、サーリフの先妻の息子で、シャジャルの継母である。

 シャジャルは、アイユーブ軍の指揮官、ファクルッディーンを摂政とし、バフリー隊の隊長、アクターイの不在のため、バイバルスが、バフリー達の指揮を執った。

 1250年2月、ルイ9世の弟、ロベールは、マンスーラのアイユーブ軍に奇襲を行った。

 ロベールの率いる騎兵隊は、本陣のファクルッディーンを敗死させ、マンスーラ市内に突入した。

 ロベールの騎兵隊は、マンスーラ市内を進撃中、22歳のバイバルスの率いる、バフリー隊の反撃によって、壊滅し、ロベールは、戦死する。

 マンスーラに市内に入った、フランスの騎兵、290人中、生き残ったのは、5名に過ぎなかった。

 バイバルスが、反撃の狼煙を挙げると、アイユーブ軍は、総攻撃を行った。

 シリアから、帰国した、トゥーラーン・シャーによって、十字軍の補給路が絶たれ、物資の欠如及び、疫病により、十字軍は、追い詰められ、同年4月には、アイユーブ軍は、ファルスクールの戦いに勝利して、ルイ9世を捕虜としたのである。

 しかし、トゥーラーン・シャーは、父のサーリフの私兵、バフリー隊を信用しなかった。

 スルタンに即位すると、シリアかの側近を重用して、バフリー隊を左遷した。

 そのため、バイバルスを首謀者として、バフリー隊は、トゥーラーン・シャーを暗殺した。

 そして、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンに即位させたのである。

 イスラムの歴史上、女性の君主は、シャジャル及び、インドの奴隷王朝のラズィーヤの二人しか、存在しない。

 トゥーラーン・シャーの死によって、アイユーブ朝は、事実上、滅亡した。

 シャジャルは、3カ月後、マムルークの指揮官、イッズッディーン・アイバクを夫とした。

 シャジャルは、マムルーク朝の初代に数えられないとの説がある。

 バイバルスを筆頭に、バフリー隊は、シャジャルに忠誠を誓っていたが、アイバクは、バフリー隊を信用しなかった。

 バフリー隊にとって、アイバクは、元上官ではあったが、主君ではなかった。

 1254年、アイバクは、バフリー隊の隊長、アクターイを殺害したため、バイバルスは、ダマスカスのマリク・アン=ナスルの元に亡命したのである。

 ナスルは、アイユーブ朝の王族であり、アイバクのマムルーク朝を認めていなかった。

 そのため、バイバルスの亡命を受け入れたが、ナスルとバイバルスは、不仲になったため、バイバルスは、カラクのアイユーブ朝の王族、ムギースの許へと逃れた。

 バイバルスは、ムギースにエジプト進軍を依頼するが、マムルーク朝軍に敗れたのである。

 シリアの放浪時代は、バイバルスにとって、辛い時期であったが、イスラムの伝記では、「バイバルスは、苦境に耐え、決して、仲間を見捨てなかった」とさされている。

 1258年、チンギス・ハーの孫、フラグによって、アッバース朝が、滅亡して、モンゴル軍の更なる、進攻に対して、イスラム世界は、恐慌状態に陥ったのである。