アンブロシウスは、皇帝に書簡を送り、「神は皇帝の罪を赦さない。悔改のないままでは、聖体拝領を認めない」と告げた。
テオドシウスは、自身の非を認め、ミラノの大聖堂へと向かった。
しかし、アンブロシウスは、テオドシウスの入場を拒み、最高権力者の皇帝が、皇衣を脱ぎ捨て、平服の罪人として、大聖堂の門前で、赦しを乞うたのである。
390年のクリスマス、アンブロシウスは、テオドシウスの聖堂入場を許可し、信徒として、認めた。
テオドシウスが、アンブロシウスに跪いたことは、ヨーロッパ史上の決定的な、一歩となった。
「皇帝は、教会の内側にある」とのアンブロシウスの言葉通り、世俗権力、即ち、皇帝は、神の法(教会)に従わなければならないとの原理が、確立されたのである。
391年、テオドシウスは、カトリックの国教化を強硬に推進して、「テオドシウス法典」の編纂を始めた。
テオドシウスは、伝統的なローマ神話の神々への供犠及び、参拝を法的に禁じた。
異教の祭典の古代オリンピックは、テオドシウスに廃止されました。
そして、ウェスタの神殿で、1,000年以上灯り続けていた、「永遠の火」を消させたのである。
テオドシウスは、ウァレンティニアヌスの監視役として、フランク人のアルボガストを帝国西方のマギステル・ミリトゥム、即ち、軍司令官に任じた。
アルボガストは、有能な、軍人であり、西方帝国の実権を握っていた。
392年、ウァレンティニアヌス2世が、不審な、死を遂げると、アルボガストは、友人のエウゲニウスを皇帝に擁立したのである。
エウゲニウスは、修辞学の教師(文官)であり、軍人ではなかった。
アルボガストは、政治的感覚に優れ、フランク人の自身が、ローマ皇帝に即位することは、ローマ人の支持を得られないと悟り、ローマ人のエウゲニウスを傀儡とした。
エウゲニウスは、ローマの元老院議員達を登用し、古代ローマの伝統的宗教に寛容的政策を行ったのである。
394年、テオドシウスは、エウゲニウスを簒奪者として、エウゲニウスの討伐を決意する。
テオドシウスは、9月4日、エウゲニウスとイタリア北部のフリギドゥス川の畔で激突した。
初日は、アルボガストの善戦により、テオドシウスが、苦戦を強いられ、アラリック1世に率いられた、ゴート族の半数と、イベリア人の王バクリウスが戦死したのである。
しかし、翌日の9月5日、テオドシウスは、突如、発生した、激しい、強風(ボラ)を巧みに利用し、アラリック1世及び、スティリコ等の奮闘によって、戦況を逆転させた。
テオドシウスは、エウゲニウス軍を打ち破り、エウゲニウスを処刑して、アルボガストを自殺に追い込んだ。
テオドシウスは、ローマ帝国の再統一を果たしたのである。
テオドシウスは、394年9月5日から、ローマ帝国の唯一の皇帝となった。
単独皇帝は、テオドシウスを最後とし、ローマ帝国は、わずか、4カ月後のテオドシウスの死に伴って、二度と再統一されることはなかった。
テオドシウスは、長男のアルカディウスを東方正帝に任命し、次男のホリノウスを西方正帝に任命したのである。
テオドシウスは、395年1月17日、ミラノで、死去した。享年、48歳。
ローマ帝国は、その後、ミラノを首都とする、西ローマ帝国及び、コンスタンティノープルを首都とする、東ローマ帝国に分裂した。
テオドシウス大帝は、ローマ帝国全土を単独支配した、「最後のローマ人」であり、その死と共に、「パクス・ロマーナ」の残影は、消滅したのである。
