張良は、三度目は、日の昇る前に行くと老人は、後から来た。

 老人は、「その謙虚さこそ、宝である」と言い、張良に、「太公望兵書(六韜)」を与えた。

 「この書を読み、10年後には、王者の軍師となるだろう」と告げた。

 そして、「此れを読めば、王者の師となれるだろう。13年後、済北の穀城の下にて黄石を見るだろうが、それが私だ」と言った。

 黄石公の予言は、全て、的中し、張良は、穀城の黄石を得て、それを祀ったと言われる。

 黄石公は、太公望と共に兵法の祖として、仰がれ、その名を冠した、兵法書の種類は多く、『三略』が有名である。

 『六韜』『三略』は、並び称されて、中国史上の兵法書の「武経七書」の二つに数えられる。

 伝承では、「太公望の書」とされるが、著者は、不明である。

 紀元前209年7月、陳勝・呉広の乱が、発生すると、秦の圧政に苦しんでいた人々が、次々と乱に呼応し、張良は、若者を100人余り、集めて、乱に加わろうとしたが、乱の発生の半年後、紀元前208年12月、反乱の主導者の陳勝が、部下の荘賈に殺されてしまった。

 張良は、その後、楚王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたため、従おうとした。

 しかし、張良は、その途上にて、数千の兵を率いて、下邳西方を攻略中の劉邦と出会った。

 劉邦は、張良を厩将(武官の一種)に取り立てると、張良は、劉邦に公望の兵法を説いた。

 張良は、劉邦に出会う以前に、何度か、大将達に出会っては、自身の兵法を説いて、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。

 劉邦は、張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使った。

 張良は、「沛公(劉邦)は、殆ど、天授の英傑と言うべきだ」と感嘆し、劉邦に従うことを決めた。

 劉邦には、既に、蕭何、曹参、盧綰、樊噲等の有能な部下達がいたが、軍師がいなかった。

 劉邦は、張良の様な、名軍師を求めており、二人は、運命的な邂逅を果たしたのである。

 前述の通り、劉邦は、その後、項梁の傘下に入って、一方の軍を任されるようになるが、劉邦が、短期間の内に項梁の信任を得られたのは、張良の仲介によるとされることがある。

 紀元前208年、項梁が、楚の懐王を擁立すると、張良は、韓の公子である、横陽君の韓成を韓王に擁立するように項梁に進言したのである。

 韓成は、韓の「王子」ではなく、「公子」であるため、分家であることは、間違いない。

 韓の最後の王、韓王安に仕えたが、紀元前230年、韓の滅亡と共に、その地位を失ったため、庶民になった。

 項梁は、張良の進言を認めて、成を韓王とし、張良をその申徒(司徒のこと)に任命した。

 張良の悲願、韓の再興の第一歩であった。

 その後、張良は、劉邦と別れ、韓王成と共に千人程の手勢を引き連れ、旧韓の城を攻めて、占領するが、即座に兵力に勝る、秦によって、奪い返された。 

 張良は、正面から、戦闘する、不利を悟ると、遊撃戦を行った。

 劉邦が、洛陽から、南の轘轅に出陣した際、張良は、劉邦の軍に合流して、旧韓の城を十数城攻め取り、秦の楊熊軍を撃破した。

 紀元前208年9月、項梁が、定陶において、秦の将軍、章邯に敗北し、戦死してしまう。

 前述の通り、項羽と劉邦は、陳留を攻めていたが、項梁の戦死を聞くと、東に引き返した。

 楚の義帝は、項梁の戦死後、宋義を上将軍に任じ、秦の首都、咸陽の地に一番乗りした者に、秦の本拠地、「関中」の地を与えると、宣言したのである。