今週はマルコ13章を読んでいます。ここはガリラヤ出身の弟子たちが神殿(ヘロデ大王の第2神殿)の壮大さに驚くのに対して、イエスがその崩壊を預言することから始まるこの世の終わりについてです。(紀元70年にエルサレムはローマ軍の前に陥落し、神殿も崩壊ました。)

 マルコ
13章は「小黙示録」とも呼ばれます。人間が神と出会う危機的な場面を終末と呼ぶことができます。イエスの神の国の宣教が第1の到来、終末でしょう。わたしたちにとっては神、キリストと出会い、信仰を持つようになる機会がその時と言えます。第2の到来はこの世の終わり、最後の審判、キリストの再臨を意味します。それ故、わたしたちは第1の到来を経験し、第2の到来を待ち臨む歴史の中に生きています(実現途上の終末論)。

 

中世のキリスト教は停滞し、ある人々はカタリ派のような異端に取り込まれました。その教えは古代の異端グノーシス派の焼き直しで、旧約聖書の神、肉体や物質を否定するものでした。その対策として異端審問所による厳しい取締りの一方、「最後の審判」の教えが強調されました。その結果、異端審問官と最後の審判のキリストの姿が重なり、キリストは恐ろしい審判者というイメージが残りました(本来、キリストは神との仲介者、救い主、愛と恵みの存在です。)

 美術史ではデーシスと呼ばれる新しい図像がビザンチンで起こりました。それは審判者キリストの両側で母マリアと洗礼者ヨハネが人間のために執り成す姿です。その図像は西洋にも導入され、聖母がまるでキリストのようにもてはやされるようになりました。その結果、中世に建てられた大聖堂のほとんどがマリアに捧げられたものとなりました。

 

近世になると、カトリック教会はマリア(母なる教会、カトリック教会を象徴)と伝統を強調し、プロテスタントはそれに対してキリスト、福音、聖書を強調して、宗教改革を起こしました。

 

 

マルコ13章で印象深いところは26節と31節です。

 

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて
雲に乗って来るのを、人々は見る。(26節)

 

「人の子」(ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου בַּר אֱנָשׁ)はダニエル書713節に登場する黙示文学的な存在です(ダニエル書はヘブライ語でなく、アラム語で書かれている)。イエスは当時の人々がメシアに用いた「ダビデの子」ではなく、自らに「人の子」という呼称を用いました。

 

天地は滅びる(παρελεύσονται pass away)が、
わたしの言葉は決して滅びない。(31節)

 

 

  

 パリ、ノートルダム大聖堂前の聖母子像。
(ノートルダムは我らの貴婦人という意味)

 

 ノートルダム大聖堂