J.K.ローリングの半生

 

作者はJ.K.ローリングという女性ですが、彼女の本名はミドルネームのないジョアン・ローリングです。少年を主人公とした物語の作者が女性とわかると、少年たちは読まないかもしれないということで、著作権代理事務所が名前を2つのイニシャルで表すことを提案しました。Kは彼女が敬愛した祖母、キャスリーンから取った名前です。ご存知のようにローリングの成功はとても劇的なものです。離婚して乳飲み子を抱えた一人のシングルマザーは、生活保護を受け、1杯のコーヒーで何時間もコーヒーショップで過ごす毎日でした(妹の夫が働いていた店)。赤ん坊が寝ている間に書きあげたのが、第1作の『ハリー・ポッターと賢者の石』です。この本は1997年に出版されましたが、瞬く間にベストセラーとなり世界中の賞を総なめにしました。文学研究方法には種々の立場と方法論がありますが、歴史的にとらえるならば、文学作品の背景には作者自身の人間存在があります。それ故、作者自身の人生を知ることは作品理解には欠かせないことと言えるでしょう。ハリー・ポッターの登場人物は、ローリング自身の半生の人間関係とも重なるところが多くあります。

 ローリングの両親のピーターとアン1963にロンドンのキングズ・クロス駅からスコットランドに向かう列車の中で出会いました。彼らは19才で結婚し、20才の1965731日に著者が生まれました。当時、父ピーターはロールス・ロイスの技師で、母アンは専業主婦でした。また、2年後には妹ダイアンが生まれました。ローリングは731日生まれですが、ハリー・ポッターの誕生日を自分と同じ1980731日に設定しており、ある意味で現在の自分とハリーを同一化しています。また、ローリングの両親は彼女が生まれたときに20才でしたが、ハリーが生まれるのもジェームズとリリーが20才のときに設定しています。ローリングが最初に住んだのはブリストル郊外の町でした。当時の住宅の階段下には物置があったようで、ダーズリー宅のモデルとも考えられます。特に仲の良かった幼なじみは近所のイアンとヴィッキーという兄妹で、いろんな扮装をして、魔法使いごっこをしたそうです。この兄妹の家名がポッターでした。彼女はやがて小学校に入学し、この学校や友達に慣れ親しみました。

ローリングの母親アンは大の読書好きで、そのことが著者に大きな影響を与えました。つまり、ローリングの読書への情熱は母親譲りだということです。ハリーの親友の一人に生真面目なガリ勉少女のハーマイオニー・グレンジャーがいます。ローリングがしばしば自ら告白しているように、ハーマイオニーは少女時代のローリングがモデルとなっています。母親の影響で本の虫となったところや、小学校の嫌な経験からテストで悪い点を取ることに恐怖を覚えることなどは共通するところでしょう。

9才のときに引越しに伴い、ローリングはタッツヒルの学校に転校します。そこは今までの自由でのびのびとした学校ではなく、担任の教師が独善的に振舞う居心地の悪いところでした。シルヴィア・モーガンは全ての生徒に恐怖を植え付けた老年の猛女で、最初の授業でテストをしてその成績で席順を決めたようです。そのテスト範囲を前の学校で習っていなかったローリングは窓際に追いやられて悲しい思いをします。ハリーがホグワーツで最も苦手で嫌う人物は魔法薬学の教師セブルス・スネイプです。スネイプはハリーの父ジェームズ・ポッターとの学生時代の確執を息子のハリーに投影し、屈折したかたちで敵意と憎しみを表し続けるからです。まさにローリングはスネイプ先生のモデルとここで出会うわけです。スネイプのモデルと考えられるもう一人は高校時代の化学の教員ジョン・ネトルシップで、彼は一人の生徒をいじめるように立て続けに質問をしたようです。

タッツヒルのローリングの家は教会の隣でした。家族は誰もクリスチャンではないようですが、ローリングは中学生頃に洗礼を受けクリスチャンになったようです。敬虔なクリスチャンとは言えないかもしれませんが、ローリングの作中には聖書の記事を連想させるところがあるので、書物としては聖書に親しんでいたと思われます。また教会に併設される墓地は子供時代の遊び場だったので、墓石の名前が登場人物の参考になったことがうかがえます。

中等学校(Comprehensive School 6年制)に入学したとき、著者はとても教育熱心な若い英語教師のルーシー・シェファードに出会います。ある意味でシェファード氏はローリングが初めて心許して、尊敬した教師だったと言えます。彼女がフェミニストだったこと、また、この時期に社会革命家ジェシカ・ミッドフォードの『令嬢ジェシカの反逆』という伝記を読んで心酔したことは、ローリングがフェミニスト、人権思想に目覚めるきっかけになったと思われます。それ故、大学卒業後に彼女が最初に就職したのは国際アムネスティでした。そこで彼女はアフリカのなにおける人権問題を扱う仕事をしました。第4巻でハーマイオニーが屋敷しもべ妖精の人権問題を扱う運動を始めることは、かつての彼女自身をコミカルに描いているのかもしれません。

中等学校時代にはいじめなども経験しますが、ある意味でガリ勉少女のようなローリングにも変化が起こります。6年生(高校3年)のときに出会ったショーン・ハリスはローリングにとって生涯の友となりました。彼はロン・ウィーズリーのモデルになる人物です。ハリーの親友ロナルド・ウィーズリーは特別な存在です。ロンはハリーが失った家庭の温かさをハリーに体験させてくれる存在であり、いつも脇役に徹してくれる忠実な友です。(但し、第4巻では一時絶交状態になりますが。)第2巻ではトルコ石色のフォード・アングリアという自動車で二人はホグワーツにたどり着きます。ローリングの身近で実際にフォード・アングリアに乗っていたのはショーン・ハリスでした。ローリングの母アンが難病を患い、家庭があまり居心地のよいものではない窒息しそうな日常から、ショーンはローリングをトルコ石色の車でドライブに誘ってくれました。(また、後に生活保護を受け、劣悪な住宅環境にあるローリングに援助の手を伸べたのはショーンでした。)そして、中等学校卒業時にはローリングは人気も学力も備えた生徒として、首席(Head Girl)に選ばれたのでした。

 ローリングは夢としては作家を志していましたが、就職しやすいだろうという両親のアドバイスもあって、文学ではなく言語学をエセクター大学で専攻しました。大学時代、ローリングはあまり勉学には身が入らず、友人とパブやディスコで遊ぶことに熱中したり、シェイクスピアの演劇活動に関わったりしました。ハリー・ポッターの作中の人物名や魔法の呪文からわかるように、ラテン語、フランス語、古英語などの言語学の知識が後に開花しています。卒業後はさらにロンドンでバイリンガル秘書コースを修了し、国際アムネスティに就職しました。このころから、仕事を終えると、カフェに急いで駆け込み、ものを書くことに没頭するようになりました。大学時代の恋人がマンチェスターに移ったので、彼女も一緒に家を探しに行きました。その帰りの列車の中で、ハリー・ポッターのアイデアが突然浮かんだそうです。19906月のことです。しかし、この恋も遂に破局を迎えました。

更にショックなことに、ローリングは最愛の母を19901230日に45才の若さで多発性硬化症のために亡くしました。ハリーは第1巻の「みぞの鏡」で今は亡き両親の姿を見つめますが、ローリング自身もチャットなどで告白しているように、亡くなった自分の母の姿をハリーと共に「みぞの鏡」の中に見ているのです。

母の死後、不倫の末に早々と再婚を決めた父親とも断絶状態になり、ローリングは愛情の飢餓状態に陥りました。さらに母の形見の品々を奪った泥棒の被害はローリングの心にとどめを刺しました。彼女は何とか自分の人生を変えたいと願って、外国で英語教師になることを思い立ち、ポルトガルに渡ります。この時期、ローリングはC.S.ルイスやJ.R.R.トールキンのファンタジーに夢中になっていたようです。特にトールキンの『指輪物語』はローリングに影響を与えたように思われます。恋人をずっと探していたローリングは半年後に、3才年下のジョルジ・アランテスと出会い、同棲し、結婚しました。翌年、最愛の娘ジェシカが生まれました。娘の名前はジェシカ・ミッドフォードにちなんで名づけられました。彼女が28才になる直前のことです。残念ながら、彼女の結婚生活は夫の家庭内暴力のためにすぐに破綻しました。ローリングはジェシカを連れて帰国し、妹を頼りにエジンバラに移り住みます。第3巻でハリーはディメンターと対決します。ディメンターは人間の幸せな思いを吸い取り、生きる意欲を奪って精神的な死をもたらす存在です。ローリング自身、暴力の故に前夫から逃れ、生活保護を受けた時期にひどい抑鬱状態に陥りました。ディメンターは単なる創作物ではなく、彼女の実体験から出たものと言えます。ネズミが這い回るようなひどい住宅環境から転居し、今後の人生設計のために教員免許を習得したり、ハリー・ポッターを執筆したりする背後には友人や妹夫婦からの暖かい援助がありました。やがて、ハリー・ポッターの奇跡によって、ローリングは世界中から注目される時の人となりました。

 タッツヒルのローリングが子供時代に住んだ家、隣の教会、わざわざ行って写真を撮りました。。