「そうなりたいね、思い出から外してしまいたいのは生まれた土地だけでたくさんだよ。痩せ馬の先送りっぽい自分という人間をどう思うか難しいけど、ショー君と貴女のことは大好きだからあきらめるつもりは無いよ」
「私だって因幡の白兎だもん、今は自分がうとましい。でも、ショー君と貴男のことは大、大、大好きだからね」
すべてをはぎ取られてもなお、愛情と健康だけはゆるぎなく残っていた。何よりだと思った。強がりではなかった。
卒園を待って難儀に終始した土地を離れた。さらば矢切の渡しであった。二重の家賃がどうしたものかと悩みのタネではあったが、幸いにも居酒屋をやりたいとの申し出があった。
(あんまり兎がかわいそうだから大黒様が塩梅してくれたのかもしれない。これで、安心してサンの小屋に行けるわ)。自分にも何がしかの守り人がついてくれているようで、勇気づけられる思いだった。
業務用の冷蔵庫や食器、テーブルセットや電気製品のほとんどを新しいオーナーに無料でゆずり、財産は吾が子一人であった。隣近所に挨拶一つせず、夜逃げ同然の転出であった。
話が終わっても、御方様は黙ったままだった。かける言葉がみつからない、そんな様子だった。長い沈黙の後、「因幡の白兎か…」、ぼそっとつぶやいた。