「卯月の気持も固まっていないっていう事ね」
「先のことはまだ全くわからない。今はこうしているのがベストなのよ。不謹慎でも何でもないと思うんだけど」
「私にはよくわかるわよ、卯月の言い分が。でも、お母さんの心配も当然だと思えるし、困ったもんだ。ところでさ、毎日、どうやって暮らしているの」
「どうやってって言われても、会社に行って仕事をして食事をして寝るだけよ」
「一体全体、どこにいるの」
「マリアの家よ」
「えっ、何だって」
「下町の六畳一間の古いアパートよ。小谷野さんがそこをマリアの家って名づけたのよ。マリアっていうのは、つまりは私よ」
瑤子が大袈裟に身をのけぞらせて言った。
「これぞ恋は盲目だわ。卯月がマリアでおんぼろの隠れ家がよりにもよってマリアの家だっていうわけなの。やっていられないわね、馬鹿馬鹿しくて。だけど、小谷野さんは直属の上司なんでしょう」
「そうよ。私の席は彼の隣だもの」
「キャーッ、驚いた。つまりさ、そのマリアの家とやらから二人で仲良く出勤して、知らん顔して上司と部下を演じるわけなのね。すごいね。なまじっかのドラマの上を行くわよ、それって。でも、よくバレないわね」
「それは、細心の注意を払っているもの。降りる寸前に車両を移動したりとかね」
「ウワー、エロチックだ! だけどさ、お忍びだから隣近所に挨拶ひとつしていないわけでしょう。知り合いもいない所で心細くはないの」
「それがね、よくしたものでそれなりの人間関係ができるものなのよ」
瑤子に話したのは、あるスナックのママとの出会いだった。
共に暮らす事は、傷付いた心を温泉のようなぬくもりで包んではくれたが、抱えている重圧に押しつぶされそうになる事も、もちろんしばしばあった。そんな時は、ふらりと夜の街へ出て、喧騒の中で気を紛らせる事にしていた。