「お兄さん、とりあえず中生二つと、塩で串の盛り合わせね」
席に座るや、小谷野課長は上機嫌でオーダーの手を上げた。この所、ついぞお目にかかった事のない高揚した様子に、心の中に暖かいものが流れた。とはいえ、腹に一物も二物も抱えての同席であるから、
「どうでしたか、今日の感想は」
と聞かれると、いかにも上司が喜びそうなソツのない答えを返した。
「緊張しましたけど、お陰さまで視野が広がったような感じがします。企画段階で先生方とお会いした経験はなかったので」
「実際、編集の人は気の毒ですよね。ずっと、机にかじりついているんだから。よく、あの会社に一日中居られるもんだと思いますよ」
聞いているうちに、笑顔が引きつり出した。(よく言うわよ。そんな会社にしたのは誰なのよ。貴方にだって、責任の一端はあるんですからね。暢気な事を言わないでもらいたいわ)。
思う事をそのまま口に出せないのが浮世である事くらいは、十分にわきまえているつもりだったし、まだシラフだったので、ほんの少しだけ皮肉を交えつつも、心中と裏腹の返事をした。
「でも、やっと一人前に扱ってもらえるようになったわけですから、贅沢を言えたガラじゃありません。ミスのない本を作らないと、どなたかにすぐに「クビだぞ!」って脅かされてしまいますから。ウフフフ」
「前の課長から聞いていたけど、原稿に対する集中力は並み外れていますね」
(伊達や酔狂で原稿にかじりついているわけじゃないわよ。貴方が尊敬してやまない親分が私を目の仇にするから、これっぽっちのミスもできやしないのよ。そんな事、とっくに知っているくせに!)。生ビールに続く日本酒で気が大きくなったのか、つっかかってやりたい衝動を抑える事ができなくなってきた。
「あら、お褒めに預かって恐縮です。私にはいじめっ子がいるので、失敗するわけにはいかないんですよ。いやだわ、本当は全部ご存知なんでしょう。オホホホ」
軽く水を向けてみたのだが反応はなく、相手は意味不明の笑みを浮かべているのみだった。(笑っていればいいってもんじゃないわよ。本音を言わないところを見ると、まだシラフなんだわ。酔わせて聞きたい事もあるってね)。