2018年3月2日、龍華山 永慶寺(エイケイジ)に参りました。

奈良県大和郡山市永慶寺町にあります。


Wikipediaより由緒
【 黄檗宗寺院で、山号は龍華山。本尊釈迦三尊
歴史

旧地は山梨県甲府市岩窪町で、甲府盆地の北縁にあたる。付近には武田氏居館跡(甲府市武田)をはじめ、甲府五山の円光院や武田信玄墓所など、甲斐武田氏に関する寺社・史跡が多く分布する。『甲斐国志』に拠れば将軍徳川綱吉側用人である柳沢吉保が、萬福寺八代住持の悦峯道章(えっぽうどうしょう)を招聘し創建されたという。

柳沢吉保は宝永元年(1704年)12月に甲斐国を与えられ甲府藩主となる。吉保は国元へ下ることはなかったが、甲府城下では柳沢氏の影響による大名文化が栄え、恵林寺甲州市塩山小屋敷)や一蓮寺(甲府市太田町)、常光寺韮崎市清哲町青木)など柳沢氏は甲斐源氏武田氏に関する寺院を中心に諸物の奉納など保護政策を行なっている。

一方で吉保は、江戸期に中国から伝来した黄檗宗を信仰し、永慶寺は黄檗宗による柳沢家の菩提寺として創建された。吉保は甲斐国主となると甲府城の改修や城下の整備を行なっており、永慶寺の創建もこれと並行して行われている。

『龍華山御建立以来諸色書留』、『甲州龍華山御建立次第』、『楽只堂年録』に拠れば、吉保は宝永2年(1705年)7月9日に龍興寺(東京都中野区)住職の雲巌を開山とし臨済宗の菩提寺建立を発願し、同年8月には菩提寺建立を老中に申請し、同年11月には寺社奉行に当てて甲斐山梨郡岩窪村に穏々山霊台寺を建立する。同年11月には岩窪・下積翠寺両村に寺領370石が寄進されている。なお、宝永2年8月には将軍綱吉から菩提寺を古跡に準ずることを承認されている。

黄檗山萬福寺住持の悦峯道章は宝永4年(1707年)8月に江戸で将軍綱吉に拝謁しているが、翌宝永5年(1708年)4月に吉保は悦峯道章を招聘し、霊台寺の寺号・山号が龍華山永慶寺と改められた。翌宝永6年(1709年)3月には伽藍の造営が開始され、同年7月には棟上が行われている。翌宝永7年(1710年)8月10日には開堂の儀式が行われている。なお、永慶寺の造営は柳沢家家老薮田重守らが主導したという。

甲府時代の永慶寺の伽藍配置は南に惣門、中央に仏殿、仏殿北に方丈、仏殿西に禅堂・祠堂、仏殿東に鐘楼・斎堂、惣門奥に天主堂が配置され、萬福寺に類似した配置であることが指摘される(渡辺 1990)。また、仏具や調度は吉保により寄贈され、京都・江戸・甲府の3カ所から調達され本尊の釈迦如来像・両脇持像は京都で制作されたという。

福寿堂年録』に拠れば、正徳3年(1713年)9月5日には吉保の正室定子が江戸下屋敷において死去し、同年9月21日には永慶寺で葬儀が行われている。また、翌正徳4年11月2日には吉保が死去し、同年11月15日には永慶寺で葬儀が行われている。

吉保は生前に柳沢氏の転封に際しては永慶寺の甲斐存置を望む意思を示しているが、享保9年(1724年)の甲斐一国の幕府直轄領化に伴いに柳沢氏は大和郡山へ転封されると、寺領安堵の朱印状を得られなかった永慶寺は大和郡山に移転された。吉保夫妻の遺骸は恵林寺に改葬された。

永慶寺は黄檗宗の異国情緒あふれる御仏を多く所蔵しているほか、藩祖吉保の肖像や悦峯道章の頂像をはじめ、柳沢文庫と並んで柳沢家に関する資料が多く残されている。】



写真のみで。