【 大和の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に通ずる古道。山の辺の道とも表記され、歴史上の記録では日本最古の道として知られる。
辺の道は、古墳時代の初期、4世紀の崇神天皇のときにはすでに作られていたと考えられているが[2]、弥生時代後期には、布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道であったとも推測されている。奈良から石上・布留(天理市)を経て三輪(桜井市)に通じていたとみられ、その全長は約35 km、幅は2 m足らずの小道であるが、沿道には石上神宮、大神神社、長岳寺、崇神天皇陵、景行天皇陵、金谷石仏などの多くの寺社や古墳群があり、この地に権力を握る古代国家の中枢があったことや、文化交流の重要な幹線道路であったことをうかがわせている。古墳時代の奈良盆地は沼地や湿地が多く、これを避けて山林、集落、田畑の間を縫うように山裾に沿ってつくられたため、道は曲がりくねっている。
『古事記』では崇神天皇の条「御陵は山辺の道の勾の岡の上に在り」、同じく景行紀には「御陵は山辺の道上に在り」とある。
乃楽山(奈良山)で討たれた平群鮪を追う影媛(物部麁鹿火の娘)の悲しみを詠んだ歌に「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ …」とあり(武烈天皇即位前紀、『日本書紀』巻第一六)、布留(ふる)・高橋・大宅・春日・佐保を経て乃楽山に至っているが、山辺の道の延長であろう。時代の経過とともに奈良盆地の湿地や沼地が乾燥して、平地部に直線的な道路が開かれるようになると、山辺の道を利用する人々は減少していき、しだいに西側の上ツ道が多く用いられるようになったと考えられている。
三輪山近くにあった海石榴市(つばいち)は、日本最古の市が立ったところだといわれている。南部に古道の痕跡や景観が残り、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程で、その多くは東海自然歩道となっている。また、石上神宮から北部にも山辺の道は続いていたと考えらてれるが、長い歳月で風化が進んでしまっていることから、今日においてもその道筋の詳細はわかっていない。
田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山、そして葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる。】