2010年11月に書いた日記ですが、西福寺(サイフクジ)の日記を書くにあたり、再び付け足してアップし直します。
檀林(ダンリン)皇后について書いております。
檀林皇后(橘嘉智子[タチバナノカチコ]/786年~850年)とは嵯峨(サガ)天皇の皇后で、絶世の美女で仏教への信仰が篤い、才女だったらしいです。
弘法さん(空海)の出てくる時代です。
Wikipediaより檀林皇后について
【 世に類なき麗人であったといわれる。
もとは嵯峨天皇の数多い夫人の一人に過ぎなかったが、桓武天皇皇女の高津(コウヅ、タカツ)内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(フジワラノフユツグ/嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子[ミツコ]の弟三守[タダモリ、ミモリ]の妻だった)らの後押しで立后した。
橘氏出身としては最初で最後の皇后である。
嵯峨天皇との間に仁明(ニンミョウ)天皇(正良[マサラ]親王)・正子(マサコ)内親王(淳和[ジュンナ]天皇皇后)他二男五女をもうけた。
仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。
嵯峨天皇譲位後は共に冷然院・嵯峨院に住んだ。
嵯峨上皇の崩後も太皇太后として隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったといわれる。
そのため、廃太子恒貞(ツネサダ)親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている。
逸話
仏教に深く帰依しており、餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれる。
または、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。】
妖怪画、帷子辻(カタビラガツジ)から

【 第廿二 帷子辻
檀林(ダンリン)皇后は世に類いなき美人であられたので、多くの人々が見奉り、この方に心を動かさぬ者はなかった。
お隠れになった時、御遺言に「亡骸を埋めずに辻に捨てるべし。
この身は、ただ化野(アダシノ)の露に晒(サラ)して鳥辺野(トリベノ)の露と消えたい。
七々日(シチシチニチ)(四十九日間)の変貌を恋に迷う輩(トモガラ)に示して、世の無常を観じさせよう。
その時には成仏の便りとなるであろう」と仰せられて、御身を野曝(ノザラ)しとなされたのはありがたい例(タメシ)である。】
〔 出典:『竹原春泉(タケハラシュンセン) 絵本百物語 ―桃山人夜話(トウサンジンヤワ)―』
竹原春泉・画 桃 山人・文
1841年
多田克己編 〕
妖怪画として描かれています。
何故この話が妖怪画として描かれたのかが今一わかりません(;^_^A
帷子辻は今の帷子ノ辻(カタビラノツジ)付近(太秦[ウズマサ]の近所にある)だった様です。
上記のモノは、皇后の遺体を野に放置して、無常を示す伝説からですが、それを絵にして遺す様にと伝えた伝説があります。
その伝説が九相(観)図(クソウ[カン]ズ)としてあります。
西福寺(サイフクジ)の『檀林皇后九相観(クソウカン)』より。
わかりにくいですが。

本当かは定かではありませんが、描かれているのは檀林皇后と伝えられています。
どうもこちらの話では皇后の亡骸は、鳥辺野にあったようです。
西福寺は、五条の松原通(マツバラドオリ)付近にある六道珍皇寺(ロクドウチンノウジ)や六波羅蜜寺(ロクハラミツジ)の近所にあります。
九相図では、野曝(ノザラ)しにされた美女の死体が朽ちていく様を九段階に分けて描き、肉体への煩悩をさとし無常を説いています。
九相図は他に小野小町が描かれた物が他のお寺にあります。
どちらも公開時期が決まっています。
前に檀林皇后が創建した旧檀林寺跡にある檀林寺に行きました、確か元のお寺は無くなったはずです。
嵐山にある祇王(ギオウ)寺の近くです。
檀林皇后に関わる物や古い物があって面白かったです。
歴史は面白いですね( ̄▽ ̄)b
間違いがあるかもしれませんので、大体で宜しくお願い致します~m(__)m