まだ年の大半をフィリピンで暮らしていた子供時代のことだが、私は毎年夏と冬に家族と日本へ短い一時帰国をしていた。このころの両親は兵庫県の丹波市山南町という田舎に仕事仲間が住んでおり、その方が両親のNGOの事務所を管理していたことから、事務所の近くで古い一軒家を借りて、毎年帰国するたびにそこで滞在した。周りは山ぐらいしかなく、夜になれば猪や鹿などが出現する田舎だったこともあり、借りていた一軒家は古いながら広々としていて、とても居心地が良かったのを覚えている。
 私達家族が年に二回、それも一カ月程度しか滞在していなかったため、庭は荒れ、雨漏りが頻繁に起き、冬になれば勝手にイタチが住処にしていたような古い家だ。トイレも今では珍しいぼっとん便所で、底の見えないくらい深い穴からかすかに聞こえる風音は夜になると恐怖心をあおった。しかし、台所と居間や大き目の和室の古い畳やいつも掃除が行き届いていなくて埃っぽかった長い縁側はコンクリートか竹でできた家ぐらいしか周りになかったフィリピン育ちの私にはとても新鮮で、いつも帰るのが楽しみだった。

 そんな家も、家族と使っていたのは両親が寝室として使っていた小さめの和室、子供部屋として使用していた洋室、台所兼居間として使用していた家の奥の和室のみだった。ほかにも、大き目の、本来の居間として使われると思われる縁側沿いの和室は一応私と妹の遊び場の延長として使っていたがそれ以上に使用したことはなかった。
 しかし、遊び場としても使うことを許されなかった部屋が、その家には一室あった。居間として使っている部屋の奥、ガラス製のふすまを一枚隔てたところにまた短い廊下があって、そこには大家さんが住んでいた頃に書斎として使っていたと思われる和室があったのだ。色あせたピンク色のカーペットが一面にひかれているが、それを少しめくれば下は少しかび臭い畳。ガラス張りになった窓は長年の老化で固く閉まっていて、廊下は歩けば薄く足跡を残すほど埃でまみれ。何よりも外には薄気味悪いジャングルを思わす、荒れた小さめの中庭があった。埃っぽい廊下から見える中庭の大きな樹とそれに絡まる蔦や雑草が風に揺れるたびに古びた家に隙間風が入り、ぴゅーぴゅーと心細い音が聞こえてきて、恐怖心を煽った。
 しかし、荒れた庭や埃まみれの廊下に反して、昼間は大きな窓から日差しがよく入り、明るかった。思えば、家で一番昼間の日差しがよく差し込んだのはあの部屋だったかもしれない。
 そのころはなぜその部屋だけ入ってはいけなかったのかが分からなかった。しかし、思い返せばあの部屋の隅には段ボールや箱が何個か置いてあり、中にはとても両親の物とは思えない古いおもちゃや本が置いてあった:きっと大家さんの私物だろう。そして、それらが残っているから禁止されていたのだ。だが、禁止されればされるほど興味は湧くもので、私はよくその部屋に妹と勝手に入るという一種の肝試しのような遊びをしていた。なんせ、その頃の私の発想では、「お化けが出るから入っちゃダメなんだ」と単純に考えていたのだから。
 肝試しといっても、書斎に続く廊下までの道のりを明るい昼間に妹と互いを押し合いながら歩くというものだ。姉妹揃って臆病だった為、廊下を半分ほど渡れればいい方で、大概押し合いっこで部屋に踏み入れる前にはどちらかが怯えて叫び、逃げるように居間のほうに走って帰っていた。一度だけ、昼間の日差しが一番よく部屋を照らす時間帯に妹と意を決して書斎を探検したことがあるが、蜘蛛の巣が掛かった本が数冊並ぶ埃だらけの棚や段ボールの中で見つけた腕の取れたガンダム人形や汚れたセーラームーンのフィギュアを見ると妙に生活感が残っていた。そこだけ前の家主に、そのまま忘れ去られたようで、幼い私は「きっと幽霊のおもちゃに違いない」と結論付け、より一層部屋が怖くなった。

 しかし、そんな書斎に対する恐怖心も年を重ねれば収まるもので、小学校2年ほどになったころには昼間であったら特に怖がることもなく入って色あせたカーペットにしばらく座って時間をつぶすぐらいはできるようになっていた。妹は相変わらず怖がっていたのでついてくることはまずなかったが、毎年日本に帰るたびに私は書斎に入り、特に意味もなく壊れたおもちゃの入った段ボールを開いて中のおもちゃの様子を見たり、毎年心なしか埃っぽさの増す本棚を眺めたりしていた。

 そんな、いつも通り特にやることがなく書斎を探検していたある日のことである。毎日意味もなく開いて中身を確認しているおもちゃの入った段ボールの奥に、ガラス張りの、当時の私がちょうど両手で抱えられる程度の箱を見つけた。興味が湧いて段ボールを横によけ、奥を覗いてみると、小さなかわいらしい顔と目が合った。ガラスの中には、黒い土台の上には綺麗にポーズをとった幼子の日本人形が入っており、片手には白地に赤や黄色の繊細が柄のついた毬を持ち、もう片手には縄跳びを思われる紐を持っていた。どこかきょとんとした表情をした丸い顔は色白で、つぶらな瞳と紅を塗った小さな口が印象的な人形だった。豊かな黒い髪は前髪がぱっつんと切られていたが肩を超える程度の長さで、着物の色はすでに記憶が定かではないが、赤や橙色のような色彩で、その色鮮やかさに思わず「私もこんなのを着てみたい」と羨ましくなるような立派なものだったように思う。今にも万里をポンっと投げ、遊び始めそうな動きのあるポーズを決めた人形は私にとっては初めての日本人形で、その細かい作りには幼心に「すごい」と思ったものだ。


 「人の物だから触ったらダメ」という母の注意も忘れ、私は人形の入ったガラスケースが出せるよう、邪魔な段ボール箱を部屋の角に押してケースを引っ張り出した。昼の光に照らされた部屋の中でみると人形はより一層かわいらしく、でもガラスは(書斎のほかのすべての物と同様に)薄い埃の幕をかぶっていた。せっかくの人形がこれではもったいないと思った私は一旦台所に引き返し、比較的綺麗に見える雑巾を一枚取ってきて、ガラスがピカピカになるまで拭き、終えると特に何をするわけでもなく、ただ人形を眺めた。見れば見るほど、人形は息を吹き返しそうで、でも怖いと思わなかったのは、子供の形をとっていたからだろう。自分と似たような年齢に見える人形にいつの間にか私は親近感を持ち、それから私は毎日人形の様子を見ることにした。
 

 ただでさえ埃のかぶった薄気味悪い部屋にいるのだ。また押し入れのような影の中に押し込むのはかわいそうだ、と思った私は人形をそのまま部屋の真ん中に置きっぱなしにして、段ボール箱だけもとの場所に押し込めた。次の日もまた次の日も人形の様子を見てはしばらく眺めていた記憶だけ今は残っている。当時はちゃっかり自分の考えた名前で呼んでいたが、今となっては名前を思い出せない。人形が私が与えた名前に答えることはなかったが、その夏、あの人形は確かに私の友人となったのだ。

 フィリピンに帰る時はさすがに人形を出しっぱなしにするのには戸惑った。しかし、しばらく考え、独り言のように人形と相談をした結果、元の暗い中に押し込めるのはあんまりだという結論に至り、中庭と、荒れた木や雑草の隙間から覗く山々の景色が一望できる障子の横に移動することに決まった。廊下から見える景色は相変わらずジャングルだが、元の暗い場所よりはいいだろうと思った。日差しが強かったら少しかわいそうだ、という自分なりの配慮から私は部屋から少し面積が広めのハンカチを一枚取ってきてガラスケースの上に敷いた。
 

 帰国する前の日には、私は人形と並ぶように座り、外の景色を見ながら「来年も来るからね」と約束し、ちゃんと山の方に人形が顔を向けているのを確認すると手を振りながらさよならを言った。来年もまた様子を見に行ってあげなくては、と使命感に燃えたのだが、その次の年からは私は祖父の家で過ごすようになったため、その後あの人形がどうなったかわからない。しかし、後にあの人形は色あせなどがしないように暗闇の中に入っていたのだと気づくと、思わず持ち主と思われる大家さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。あの家にはもう過ごすことも帰ることもなくなり、いまとなってはどうなったか確認しようもないが、たまに山南町での生活を思い返すとたまに人形を思い出すことがある。あの日、山が見えるように移動させた人形は、まだ私のハンカチをケースに乗せたまま山を眺めているのだろうか、と。さみしがってはいないか、そして色あせてはいないかと不安で、もう一度ぐらい、様子見てあげれたら、と考えてしまうのだ。