少し前に書いた随筆です(⌒∇⌒)

 

 今日も気温は30℃代。まだまだ真夏の暑さを思わす毎日であるが、この前田舎の山に行ったらすでに森の中でツクツクボウシやヒグラシが鳴き、夏の終わりを告げていた。田舎の方が秋の訪れが少し早いのかと思うと、帰ってみると都内でも一週間前までどこからでも聞こえてきていたミンミンセミたちはよく見ると土やアスファルトの上で力尽きていた。 ほんの少し前まで木の下を通るだけで、鳴き声でほかの雑音が聞こえなくなっていたのが嘘のようだ。

 都内に暮らすようになるまで、セミの鳴き声などあまり気にしたことがなかったのに、ここ数年は夏になるたびにセミが鳴き始めたら気づき、鳴き止んでもすぐに気づいた。もともと私はセミが気づいたら鳴き始めていた、という風に気づくことが多い為、不思議なことだ。

 そう思っていたが、少し前に少し田舎に住む祖父の家に行ったとき、大阪ではあれほど耳に届いていて、気になっていたセミの声があまり気にならないことに気づいた。決してセミが少ないわけではないのだろう。なんせ、大阪に比べてはるかに田舎なのだから、アスファルトやコンクリートが少ない分土から這い上がることの出来るセミたちもきっと多いし、止まり木となる木だって多くある。むしろ都内に比べれば鳴いているセミの数ははるかに多いに違いない。しかし、祖父の家がある道沿いはもちろん、木々で生い茂る近所の森林公園でさえもセミの声は背景音の一部で、決して騒音に感じない。
 それが本来の在り方なのだろうと気づいたのは祖父の家から下宿へ戻る道を歩いていた時だ。最寄りの地下鉄から出て、暑さで額を流れる汗を片手で拭いながら歩いていると、道路わきに一定の区間を置いて一本ずつ植えられている木を通るたびに耳をつんざくようなミンミンセミの音が耳障りに感じるほど聞こえることに気づいた。気になって頭上の太陽に目を細めながら木を見上げ、鳴き声をたどるようにセミを探した。すると、意外なことに音の主は一番近くの枝に居た。緑がかった羽と鳴くたびに伸縮するようにおしりを振る姿が少しかわいらしいが、その小さな体から聞こえる声はすぐ横を過ぎていく車のエンジン音すらも圧倒するほど大きい。
 あっけなく感じるほどすぐ見つかったセミを少し意外に思いながらも、しばらく鳴いている姿を見終えると、私はまた歩き出した。なんせ、観察をしようと思っても頭上からの日差しとアスファルトの照り返しで暑すぎるのだ。しかし、次の木でも、そのまた次の木の下でも少し立ち止まってセミの音をたどるとすぐに声の主たちを見つけることが出来ることに気づいた。一本の木に対して、多いときは三匹も見つけることが出来た。道理で横を通るたびに鳴き声がものすごい自己主張をするわけだ、と一人で納得した。都内ではそもそも木が少ないのだ。セミたちは数少ない木を譲り合い共有しなくてはそもそも止まる場所がないのだろう。なんとも肩身の狭い思いをしているものだ。
 本来、セミの鳴き声も川のせせらぎのように、自然の一部で、気にならないものなのだ。なんせ、田舎に行けば行くほど、セミの鳴き声は意識して聴かなくては気づかない。夜の鈴虫のように、田舎のセミたちの鳴き声は背景音と同化し、森から鳴き声が染み出すように私たちの耳に届くものだ。木に止まると言ったって、都内のように一本の木を取り合うかのように止まっていることもないだろう。本来、自然で彼らはもっとのびのびと暮らしているに違いない。少なくとも、アスファルトの道路脇に数本、彩り程度に植えられ、人工的に整えられた木に、照り返しに蒸されながら仲間たちとイモ洗い状態で少ない生活空間で鳴くという不便な生活はしていないことだろう。そう思うと、思わず「うるさい」と愚痴をこぼしそうになるほどうるさいセミの鳴き声も、悲痛の叫びに聞こえるようだ。

 そんな彼らの苦難はきっと木々の不足に限らない。先日知り合いに会いに尋ねた京都では、規則的に楠の木が植えられた道路脇の、砂がむき出しの歩道で一匹のセミの幼虫を見つけた。楠の木の枝で歩道は日陰になっていたものの、すでに殻も少し固まり、脱皮を始めそうな幼虫はずいぶんと無防備に道の真ん中で動かず、近くに登れそうな木も、隠れることが出来そうな茂みもなかった。私ははじめて脱皮後の殻ではない幼虫を目にして、意外に固そうな外見に驚きつつも、思わずなんとも不憫な、と思わずにはいられなかった。きっとそのままだと道を歩く人に踏まれるか、捕食者に食べられるかだろう。触っていいか少し迷いつつも、結局私は幼虫を背中で軽くつかみ、近くの木に掴まらせてやった。

 少しいいことをした、と一人満足していると、よく見れば木々を囲うように立てられている30センチ弱の柵と柵の間をつなぐ細い綱には列を成すようにセミの抜け殻がぶら下がっていた。好んで柵を登り、綱にぶら下がったまま脱皮したセミがいっぱいいるのか、柵を木と間違えたのか、ただ単に木にたどりつかなかったのか、正直わからないところだ。しかし、何年も土の下に過ごし、さあこれから地上生活だ、という時に、あたり一面脱皮するために掴まる木すら見当たらないのもなかなか無情なことだ。そのうえ、年々アスファルトやコンクリートで舗装される地面の下で、せっかく幼虫として成長しても地上に上がることさえできず一生を終える個体も多くいるに違いない。人の都合で舗装された地面のせいで長い幼虫生活を経ての晴れ舞台に参加できないのはあまりだ。

 昨日は下宿の廊下で力尽きたミンミンゼミの死体が一匹落ちていた。そのままでは土にすら返れない姿は、都内で生きるセミたちの苦難をそのまま体現したようだった。長い土での幼虫生活を終え、限られている舗装されていない地面から這い上がり、一カ月の短いセミとしての生を炎天下の中、数少ない木を他のセミたちと共有する。夏が終わる頃に亡くなれば落ちる先は土ではなくアスファルト。そして、最終的に人の手によって塵取りなどで回収され、ゴミに捨てられるのかもしれない。そんな小さな生き物たちの犠牲によって成り立っている自分の生活に少し罪悪感を抱きながら私はセミの死体を羽でつかみ、近くの畑に連れて行った。すっかりミンミンゼミの声が聞こえない都内にも、そろそろヒグラシが聞こえてくる頃ではなかろうか。