気づけばもう大学の夏休みは半分過ぎ、涼しくなってきた夜風は秋の訪れを予感している。夏休みの前半が本当に一か月間もあったのだろうか、と思わず不思議になるぐらい夏の思い出を作らなかった今年。しかし、最近は母の知り合いの方が経営している雀荘で社会勉強としてのバイトを始めたことによって私の夏休みはずいぶんと学生らしいものになってきている。

 フィリピンで育ち、日本の常識や、人とのかかわり方、仕事のマナーなどが不十分で、いまだに自分の予定をうまく組む能力に欠ける私でも雇ってくれた雀荘は、親切な人ばかりだが、唯一問題があるとすれば、私が住む下宿から遠いということだろう。片道電車で一時間半かかる場所にある雀荘に通うとなると、朝の通勤ラッシュと、夕方の帰宅ラッシュにあたる時間帯に移動しなくてはなくなる。

 最初こそ、この長い移動時間に体力が消耗し、疲れてばかりだったが、ここ最近は余裕もできてきて、帰宅時間がラッシュだからこそ巡り合える景色があることに気が付いた。バイトが終わり、一時間半の電車を乗り終え下宿の最寄り駅に着く夕方の六時ごろには、私が見たことのない景色が見ることができるのだ。

 

 「景色」と言うが、最初は「見た」のではなかった。「聞いた」のだ。いつものように地下鉄の出口を出たところの交差点で、定期利用の有料駐輪場に止めてある自転車を回収しに行ったときのことである。都会の交差点は途絶えることを知らないかのように車が行きかい、エンジン音と歩行者信号が青になるたびになるメロディに加え、にぎわう人の音で満たされていた。しかし、その日は、それらの音に加え、聞いたことのない、川の流れを思わすような不思議な音が頭上から聞こえてきた。

 日没が早くなり、午後6時過ぎにもなるとあたりはだいぶん暗かったが、その不思議な音が気になって上を見上げると、正体がわかった。なんと、道路脇に一定の区間を置いて植えてある木々に、何百という鳥がとまっていたのである。あたりの暗さのせいで、木にとまっている鳥そのものは見えなかったが、まるで吸い寄せられるように四方八方から飛んできては、木の陰の中へと消えてゆく小さな鳥の影を見れば、木々の枝を小さく揺らす生き物正体が何かぐらいは予想がつく。暗すぎていったいどんな鳥がとまっているのかわからなかったが、自分の拳の半分にも満たない大きさだということだけはわかった。

 

 私は、初めて見る光景に、驚きで自転車にまたがったまま木を凝視していた。一本の木に、「都会でもこんなに鳥がいたのか」と感心するほどの鳥の鳴き声が聞こえ、その一匹一匹の小さなさえずりが集まって、あたりの車に負けないような、力強い川のせせらぎのような音が聞こえる。突如交差点に現れたその音はにぎわい始めた居酒屋や、帰宅するサラリーマンたちの集団が行きかう歩道にひどく不似合いだが、どこか心地いい。木の下まで行くと、近くの人の会話や店の呼び込みも鳥たちの合唱で掻き消え、横の道路を途絶えることなく走る車のエンジン音に対抗しているかのようだった。

 結局その日は、最後まで木々に集まる小さな鳥たちの正体がわからないまま帰った。次の日も、朝からバイトでその駅まで行ったが、昨晩の騒動が嘘かのように空っぽな木々が立ち並び、聞こえてくる音もいつもの交差点とさして変わらなかった。異常気象などが気になる現在だ。もしかしたら、気温が鳥たちに奇妙な行動をさせたのだろう、と思い、少し残念になりながらも電車に乗った。

 

 その日も私は夕方までバイトをしたが、いつもより一時間早くに終えて、帰ることになった。普段は六時過ぎに最寄り駅に着くところが、その日は5時過ぎに着いたのである。そのころには、私は一日のバイトで昨晩の鳥たちのことはすっかり忘れていたが、駅の出口に出た瞬間に聞こえてきた川の音にハッとしたように上を見上げた。案の定頭上には、駅の近くの数本の木々に集中的に鳥たちが集まっていた。磁石のように飛びよってくる鳥たちも、木にとまった鳥たちが、ぴょこぴょこと移動するたびに小さく揺れる枝も昨晩と同じ。しかし、昨晩と違って、ちょうど沈み始めている日は、鳥たちの姿をきれいに照らし、その正体がよく見えた。

 この時期にしか都会に集まらない野鳥だろうか、と推測していたが、木の実のように溢れるように生っている、数えきれないほどの鳥たちの正体は、意外にも身近な雀だった。毎朝部屋に差し込む日差しと共に聞いているはずのさえずりなのに、数百も集まるとまるで違う生き物のように聞こえるのが不思議だ。

 少し目をつむり、木々に向かって耳を澄ますと、聞こえてくる大合唱はまるで荒ぶる川の流れのようだ。一匹一匹の鳴き声は、互いを飲み込むように一つになっていて、時折ほかの鳴き声に負けんばかりの強いさえずりを出す鳥の声が聞こえ、それが岩にぶつかる水の音を思わせる。交差点を行きかう車や人の声に混じる川の音はいつまでも聞いていたくなるように強く、木の下に座り込み、延々と飛び交う鳥たちを眺めていたい衝動を覚える

 しかし、夕方になると途端に忙しくなる交差点だ。私は一旦自分の自転車を駐輪場から回収しに行き、また木の近くまで寄って自転車にまたがったまま忙しそうな鳥たちを見上げていると、横を通ろうとしている自転車に軽くベルを鳴らされた。ただでさえあまり幅のない歩道だ。小さいとはいえ、自転車に乗ったまま停止していたら邪魔にもなる。急いでその自転車が通れるように横に寄り、名残惜しさを感じつつも下宿に向かうことにした。

 

 不思議なことに、道路脇には木々がどこまでも一定区間を置いて規則的に植えられているのに、雀たちが集まるのはあの交差点の周りの四、五本の木のみ。少し路地に入ればもっと周りが静かで、木の葉も排気ガスで汚れていないものなど、いくらでもあるのになぜあの数本にこだわっているのだろうか。自分が雀だったら、それこそ田舎の山で集まるだろうと、考えながら自転車をこぐ間も頭上には後ろの交差点に向かう雀たちが五、六匹の集団になって飛んでいる。交差点から離れれば離れるほど飛んでいる雀の集団は小さくなり、三百メートルほど進み、立ち止まって空を見上げてみると交差点に向かう雀は一匹ずつになっていた。周りを気にする様子などなく、ただ一心不乱に飛んで行く一匹を目で追うと、横からまた別の雀が合流するように寄ってきて、次は二匹で交差点に向かっている。そのように、一匹また一匹と集まり、その様子はまるで小さな水源が集まり、小川になってゆくかのようだった。

 

 その晩、雀たちのあの不思議な行動の意味を知りたくてネットを調べてみると、塒と呼ばれる集団行動であることが分かった。外敵から身を守るための行動と推測がされ、少ないときには数十羽、多い時には一万羽も集まるそうだ。屋根の上や、電線に集まる時もあるが、多くの場合は落葉樹を好み、落葉と共に塒も自然消滅する、もしくは鳥の数が等しく減るらしい。そうであれば、あの不思議な光景を私が見ることができるのも、葉が落ちるまでの短い期間だ。それに、大学が始まれば、あの駅に雀たちが集団塒をしている時間帯に行くことも減るだろう。そう思うと、いまからも残念に思ってしまう。

 しかし、バイトを始めたからこそ巡り合えた景色。一生懸命生き、都会の騒音に対抗するかのような川の流れを思わす彼らの大合唱を聞くと、その日どんな失敗をしても、自分も負けずに明日も頑張ろうかと励まされる力強さがある。そして、そんな景色に巡り合うきっかけとなったバイトにも、感謝の念を感じる日々なのである。