筑波山麓・里山歩いて「普門寺」へ | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

10月29日

筑波山麓の里山を歩いている。

 



それにしても筑波山、
眺めていて飽きない。











ようやく神郡の集落へ。





「つくば市立田井小学校」

静かである。

そして窓には

「ありがとう田井小」

の文字が見える。

どうやら廃校になってしまった

小学校の様だ。



ここから裏道を通って
普門寺へ向かう。





この小径の先に何があるのか

ちょっと気になるが、

ともかくは普門寺を目指す。








「普門寺」



鎌倉時代末期に開かれた寺で、
常陸の豪族小田家の
祈願寺として隆盛を極め
最盛期には末寺五百八ヶ寺を
有したという。



また幕末には水戸藩士が
天狗党を名乗り筑波山で挙兵。

本隊は筑波山の中禅寺に、
田中愿蔵が率いる隊は
この普門寺に陣を構えた。

この田中隊は軍資金調達の為に
近隣町村の豪農や商家に押し入り
金銭を奪い放火するなどして、
天狗党の中でも特に恐れられ
また嫌われていた様である。

やがて幕府軍の追討が始まると、
天狗党へ反感を抱いていた
各地の領民たちが次々と
天狗党へ向けて反撃を開始。

天狗党は那珂湊の戦いで
幕府軍に敗北する。

田中愿蔵は福島県の
真名畑村へと逃れたが、
捕縛され久慈川の河原で斬首。

享年21歳。

今は普門寺の赤門横に、
「田中愿蔵隊陣営跡」の
碑文がある。



那珂湊の戦いで逃げ延びた
天狗党1000名余は
中山道を通って京を目指したが、
諸藩の追討に合い
越前へ迂回したところで
幕府軍に包囲され降伏。

828名が捕われ、
352名が斬首。

水戸藩内では天狗党の家族も
次々と処刑された。

 









寺の裏山へ登ると
筑波山が美しい。








さらに裏山の奥に進むと、

ひときわ静かな墓所がある。

 

 














「第十八世元雅大和尚入定遺跡」





この供養塔と地蔵菩薩の
建てられている場所が、
江戸時代の普門寺住職であった
元雅(げんが)和尚が
即身仏になるために
穴を掘り入定したところという。





しかし元雅について
調べてみたものの、
詳しい資料が見つからない。

誰かご存じならば、
ご教示頂ければ幸いである。

 



山を降り、
再び境内へ戻る。

 

 







お前はさっきから
いったい何をしているだと
犬に尋ねられる。

何も答えられない
自分がいる。