結城ひとり歩き~結城城跡~ | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

11月7日

「結城城跡」

小山政光の子・朝光によって
築かれたとされる城である。



源頼朝より武功を認められた朝光は
この地の地頭を任命して結城氏を名乗り、
さらには鎌倉幕府の評定衆にも迎えられた。


 

やがて室町時代。

室町幕府に反発した鎌倉公方の足利持氏と、
それを押さえようとする
関東管領の上杉憲実が対立し、
「永享の乱」が起こる。

そして上杉方に敗れた足利持氏が
自害して果てたことで永享の乱は終結する。



しかし足利持氏方についていた結城氏朝が、
持氏の遺児の春王丸・安王丸・永寿王丸を担ぎ
幕府へ反乱を起こす。

幕府は十万ともいわれる
大軍を送って結城城を包囲した。

これを「結城合戦」という。


 

戦いは1年余にもおよび、
結城氏朝は討死し結城城は落城。

持氏の遺児3人は捕らえられ、
春王丸と安王丸は
京に護送される途中で殺害された。

永寿王丸は運良く命拾いして、
後の古河公方・足利成氏(しげうじ)となる。

※永寿王丸については異説あり。


 

結城氏は一族の多くが討死したが、
氏朝の末子の成朝(しげとも)が落ち延び、
のちに許されて結城氏を再興する。

そして足利成氏が父と同様に室町幕府と対立し、
古河公方を名乗ると結城氏は成氏についた。

しかしその後はどうか。

北条氏が侵攻してくると北条方につき、
上杉謙信が攻め込んでくると上杉方につき、
謙信が越後に戻るとまた北条方につき、
秀吉が北条氏を攻めると今度は秀吉方へ。。

という見事な世渡りを演じて、
戦国の世を生き延びていく。



因みに曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の
出だしは結城城の落城シーンなのだそうだ。

私はNHKの「新八犬伝」でしか
物語を知らないのですが。

登場人物で覚えているのは、
さもしい浪人さもじろう。

因果は巡る糸車。

仁義礼智忠信孝悌。



「結城合戦タイムカプセル埋設記念碑」



結城合戦に関する何が
埋められているんですかね。

でも結城合戦のことなら、
わざわざタイムカプセルにする
意味がない気がする。



北条氏が秀吉に滅ぼされると、
結城氏は徳川家康の次男で
豊臣秀吉の養子となっていた秀康を
跡継ぎの養子に迎える。



そして関ヶ原の後、
結城秀康は越前へ国替えとなり、
結城城は廃城。

国替えした結城秀康も、
松平の姓を名乗ることとなる。



 

蕪村の句碑

 ゆく春や むらさきさむる 筑波山 


 

何故かここに鳥居がある。


 

秀康が国替えとなった結城は
天領となっていたが、
元禄時代に水野勝長が結城藩主となり
結城城を再築。

 

そして幕末を迎える。

結城藩は藩主の水野勝知をはじめとする佐幕派と
国元家老の小場兵馬が率いる新政府派に分裂。


いったんは新政府派のクーデターが成功し
水野勝知は藩主の座を降ろされたものの、
勝知は彰義隊と組み結城城を攻撃した。

つまりここで城主が自分の城を攻めるという、
大珍事が発生した訳である。



結城城は佐幕派が奪回。

 

勝利した彰義隊が結城城から移動してしまうと、

すかさず新政府軍が攻め込んできて
勝知は結城城を脱出し逃亡。

江戸詰家老で同じく佐幕派だった
水野甚四郎は自首し取り調べを受けた後、
結城の光福寺で切腹に処せられた。

そして新政府派の国元家老・小場兵馬も

藩の混乱の責任を問われ、
結城の孝顕寺で切腹に処せられている。

 

こうして結城城は壊滅した。




現在はこの本丸跡のみが、
公園に整備されて残っている。







水野勝長の5代前の祖に当たり、
備後福山藩藩主だった水野勝成を祀る
「聡敏神社」がある。



 

もう少し辺りを散策してみるね。



公園を出てまっすぐ進む。


 

大手口と本丸の間の掘に架かる
「三日月橋」


 

これが橋の上から見る

現在の堀の跡。




 

さらに進むとまた橋がある。





こちらの方が当時の堀らしさを
良く残している様に思えるが、
藪のために覗くことすらできない。






 

 

もう一度公園へ戻って、

結城城の内堀跡へ。



この結城城には「埋蔵金伝説」が伝わるが、
その話はまたいつか。







クルマで田川のほとりへ移動。
向こうに見えるのが結城城の跡。


 

ここから攻める方の目線で見ると、

結城城は平城ながら川と沼地に囲まれ、
自然の地形に守られた
難攻不落の要害であることが良く判る。

現在3時40分。

秋の日の暮れは早い。


これから少し駆け足で
残りの結城を巡るつもりだ。