日光街道を歩く:よこまち柳通りを歩いて | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

5月5日

ちょっとだけ怖かった話をひとつ。

茨城県の古河という街を歩いていたら、
30~40歳位と思われるごく普通の男が
クルマからわざわざ降りてきて私に

「街を見て歩いているんですか」

と声を掛けてきた。

とっさに「違います」と言ったら
去っていったけど。

私はただ誰もいない通りを
歩いていただけなんだよ。

何で声をかけて来たのだろう。

それで気がついた。

ああそうか。

あれが「自粛警察」か。

自警団? 
ゲシュタポみたいだよ。

普通の善良な市民の様な顔をして
街を歩いている人間を見張っているなんて、
恐ろしい世の中になったもんだ。
(確かに私は怪しいけど。。。)

建物や岩陰に寄り添って
気配を消す忍法を

「ウズラ隠れの術」

というそうな。 

拙者これからは忍者になるでゴザル。

気配を消して生きていく。

これが私の生きる道だと
深く実感した次第。

で、それから私が
どこへ行ったかというと 

実はまだ古河にいるのです。

「日光街道道標」

右江戸道。



左日光道。



ということで左へ。


 

振り返る。

 

右の道から角を直角に曲がって
こちら側へ入ってきた訳ね。



そしてこちら側の先も
直角に右に曲がる様になっている。


ここまで見事に直角に曲がる
宿場の「枡形(ますがた)」が
今も残っているなんでスゴイ。


良く残っているなあ。



「神宮寺」



寺の縁起によれば

 室町時代に古河公方初代の
 足利成氏(しげうじ)の帰依が深かった
 良宥(りょうゆう)上人が
 鎌倉で開いた寺であったが、
 成氏の古河移座に伴って古河に移り、
 雀神社の別当寺となった。

とある。



先に進もう。
角を曲がって。


 

ここからが「よこまち柳通り」

「武蔵屋」

この辺りは遊郭街だったそうな。



少し寄り道

「徳星寺」

以下はお寺のHPより抜粋
http://www.tokushouji.jp/info/

 創建は建治元年(1275年)、
 源頼政の家臣・猪早太の曾孫にあたる
 徳星丸が16歳のとき願主となり、
 古河城内の龍崎(立崎)において創建されました。

 ~略~

 宝徳元年(1449年)、
 古河公方の足利成氏が古河城に移ってからは、
 城主の祈願所となりました。

 天正18年(1590年)、
 豊臣秀吉の古河城破却令により、
 足利義氏公の娘・氏姫が市内鴻巣の
 古河公方館へ移ると
 徳星寺も一緒に鴻巣へ移転しました。

 ~略~

 寛文2年(1662年)、
 土井利重公(3代)が古河城主の時に
 現在の地に移りました。



古い武家屋敷を思わせる壁。


 

徳星寺前の「天神町由来記」の碑には、
奥平忠昌が古河藩主となった時に
ここに天満宮が祀られ新たな町割りも行われて、
武家屋敷町となっていたことが記されている。





「よこまち柳通り」に戻る。








 

「正麟寺」



室町時代末期の開山。





ここに古河藩家老で蘭学者でもあった
鷹見泉石の墓がある。



渡辺崋山の描いた肖像画が有名。


 

「本成寺」





碑が建っている。

「水戸藩故永井芳之助外四名仮埋葬之跡」

 

水戸を訪れた吉田松陰が
宿泊した先が永井政助宅で、
永井芳之助はその息子。

松陰は永井芳之介を
志気精鋭と評価していた様で、
芳之介へ惜別の詩を贈っている。

永井芳之助は後に天狗党に加わり、
下総国葛飾郡小堤村で捕えられて
古河で斬首となった。




こちらには古河城主・土井利益(とします)の生母
法清院の墓がある。






 

まだまだ日光街道を歩く。

 

もはや「ウズラ隠れの術」で

完璧に気配を消しているので、

誰も私のことには気づかないのである。

 

今日は行けるとこまで行くからね。