お祭りや宴が盛大であればあるほど、
それが終わったときに、より寂寥を感じる。
どんなに楽しい時間を過ごしてても、
終わりとともに、日常に帰らねばならない。
だが、一度祭りを経験すると、
また祭りを経験したくなる。
祭りのときのために、頑張るということが可能になる。
好循環だ。

しかし、そのような「祭り」の経験が
日常生活に与える悪影響はないのだろうか?
祭りで興奮し、高揚感に胸を躍らせ、
何にも代えがたい至高の経験をする。
日常では到底できない経験。
それが日常生活に悪影響が生じさせるってどんなときだろう?

んー、こんなのはどうだろう。
祭りの残像を追い求めて、日常で満足できなくなるってシナリオは。

日常でも楽しいこと、興奮するようなことはあるだろう。
でも、それがかつて経験した、祭りのときと比べると、
薄っぺらいものに感じてしまう。

本当は日常でも幸せを感じるべきだし、
これまでであれば幸せに感じたことであろうと、
「祭り」のときと比較してしまうと、
どうしても物足りなく感じてしまう。

だから、祭りを求める。
日常を軽んじてでさえも。
アハハ、そうして日常は崩壊だ。
こんな悪循環が生じることもあるんじゃないかな。

この構図は、まるで麻薬中毒者のよう。
麻薬なんかなくても、日常生活を送っていかなきゃいけないのにね。
もう二度と手に入らない麻薬を求めちゃダメ。
いや、そもそも麻薬に手を出した時点でダメなのか。
でも、麻薬と知らずに手を出していたら、どうしたらいいのか。
それに、「麻薬」も、使い方によっては、大いに役立つものなのに。

…苦しくても、「麻薬」は絶たないといけないとは頭では分かっているのだけど。