「いやあ。娘ほど年の離れた嫁をもらったんですよ。ははは。」
本人に伝えたことは一度もないし、
今まで誰にも言ったことはないけれど。
私は、師匠がこういう気配を
醸さないところが好きだ。
「自分よりも随分と年の若い人が、結婚してくれた。」
こういう雰囲気を微塵も
感じさせないところも。
実際。
私たち夫婦の年齢がえらく離れていることを
誰かに驚かれても、師匠は実に淡々としたものだった。
もしかしたら。
飄々とした体を装っていただけ
なのかもしれないが。
「結婚は結婚。」
訊いてみたことはないけれど。
先生はこんな風に
考えているんじゃないだろうか。
まあ。
珍しいんだろうけど。
でも。
別段、特別なことではないと。
私は師匠のそんなところが
好きだったりする。
これも、本人に
伝えたことはないけれど。
私の師匠は気位の高い人だ。
「結婚してもらった。」
どころか、
「私じゃないと、君は大変だったよ。」
師匠に治療してもらっているうちに
私の体調が良くなっていったこと。
それに加えて。
私の体が不調なときに
何度も助けてきたからだろう。
先生は、よくこう言っていた。
つまり。
「私が君と結婚してあげた。」
とでも言いたいらしい。
けっ。
悪態と同時に。
心中、私は大笑いしていた。
「あー。はいはい。そりゃどうも。私を嫁にもらってくれてありがとねー。」
こうとでも言えってか?
わはははははははははは。
今まで体の不調を治してもらってきたことは
限りなく有難いと思っているけれど。
それと結婚は別よ。別物。
別に、不治の病にかかっていた
わけでもないんだから。
まあ。でも。
一応。
とりあえず。
相手は夫でもあるが、
師匠でもあるし。
正偽の程は別として、人間には思想の自由も
勘違いする権利もあろうかと。
早い話が。
面倒くさかったから、
その都度、放置しておいた。
それに。
年の差があることに、何らかの後ろめたさを感じて
卑屈になる姿を見せられるくらいなら。
そんな師匠の姿を見るくらいなら。
見当違いでも、的外れでも。
何でも。
自分に自信がある姿を
見せてもらう方がよっぽどいい。
こうも思っていた。
そんな気位の高い先生が。
一流の治療家である、私の先生が。
自分の娘、あるいは孫と言っても
不思議じゃないほど若いナースに
おむつを替えてもらっている。
あの先生が。
切なくて、涙が出る。
転院してすぐに、師匠の体に
抗生物質の投与が始まっていた。
転院初日、私が食ってかかった若いドクターが、
具体的な治療方法や経過を教えてくれる。
白血球や赤血球の正常値をメモに書いてくれ、
それに対して、先生の数値がどのくらいなのかを
説明してくれた。
この治療のお陰だろう。
細菌が充満して、はち切れそうなほど
膨らんでいた師匠の体は、日を追うごとに
少しずつしぼんでいった。
体中がパンパンに腫れ上がり、元の人相すら
分からないような状態に比べたら、
どんなに良い展開だろう。
ところが。
時間の経過と共に、今度はまるで、体中の水分が
細菌と一緒にすべて流れ出てしまったかのように
痩せこけてしまった。
数日前までは、まるで風船だったのに。
今度は骨と皮だけになって
横たわっている。
腎臓を患っているため、皮膚は日を追うごとに
どす黒さを増し、そのことが、すっかり白くなって
しまった髪をさらに白く見せる。
これじゃ、まるで骸骨だ...
元の人相が分からないような状態なのは、
膨れ上がっていた時と変わらない。
この時。
「先生のこんな姿を、子供たちに見せずに済んで良かった。」
反射的にこう思ったのは、
私のエゴだろうか。
そうかもしれないと、今は思う。
子供たちにしてみれば、
たとえどんな姿であっても、
自分の父親を見舞いたいと
思っていたかもしれない。
実際に子供たちが台湾まで来て、
お見舞いができる状況だったかどうかは、
また別の話だ。
それとも。
意識すらない父親の姿を見るのは、
できれば避けたいことだっただろうか。
そうかもしれないと、今も思う。
最初にICUで師匠を見舞った時に
喰らった衝撃と味わった感情は、
子供たちの何倍も長く生きてきた私でも、
生まれて初めて経験するものだった。
それでも。
父親がベッドに横たわる姿を見て、
子供たちが実際に何を感じ、どう思うかは、
私には分からなかったはずだ。
だって。
私は私でしかあり得ない。
私に分かるのは、自分がどう感じ、
自分がどう考え、自分がどう思うか。
それだけだ。
本来。
ある1つの出来事を100人が体験すれば、
100通りの感情や感想があるのが
自然なのだろう。
映画のレビューを見れば、それが分かる。
どんな映画でも、皆が星5つという評価も、
皆が星1つという評価もない。
人は皆、違う。
どうしてそれが
分からなかったんだろう。
恐らく。
あの時、子供たち3人を
台湾に連れて行くことは、
現実的に無理だったと思う。
もし台湾に行って面会できたとしても、
普段とはあまりに違う父親の姿を見て、
まだ幼い子供たちが、大きなショックを
受けることも、十二分にあり得るだろう。
というより。
間違いなく、大きなショックを
受けただろうと思う。
でも。
それはそれだ。
とにかく。
一度。
子供たちは、
どうしたいと思っているのか。
まだ小さいからと軽んじずに。
端から無理なことだと決めつけずに。
真剣に向かい合って、
突っ込んで訊いてみるべきだった。
「先生のこんな姿を、子供たちに見せずに済んで良かった。」
“こんな姿” とは一体何だ。
子供たちにとっては、大切な父親だ。
なんて傲慢だったんだろう。
実際に子供たちが先生を見舞った時に、
何をどう感じ、考え、思うのか。
それは、子供たちそれぞれ自身にのみ、
分かることなのだ。
私が見たのと同じ視点で、
子供たちも父親の姿を見るに違いない。
私が味わったのと同じ感情を
子供たちも味わうに違いない。
私は独り善がりに、
勝手にこう思い込んでいた。
挙句。
自分では、母親として、子供たちのためを思い、
守ろうとしているつもりでいるから、
全く始末に負えない。
何であれ。
人間は無自覚が一番恐ろしい。
「父親のこんな姿は、見たくないと思うに違いない。」
こう考えることで。
子供たちが悲しむであろう、
傷つくであろう姿を見ずに済む。
延いては。
ただでさえ辛い時に、これ以上自分の心を
痛めることにならずに済む。
私は心のどこかでこう思っていた。
いや。
計算していたというべきか。
とどのつまり。
現実から逃げていた。
先生にすれば、どれだけ子供たちの顔を
見たいと思っていただろう。
それとも。
先生は、自分がICUのベッドで
横たわっている姿を、子供たちには
見せたくないと思っていただろうか...?
私はこの時のことを、先生と子供たちに
心から申し訳なく思っている。
母親という立場を自分で勝手に絶対視し、
積年の親子関係の上に胡坐をかいていた。
確かに。
あの時の私には、
心の余裕がまったくなかった。
もう、いっぱいいっぱいだった。
それは、仕方のないことだったと
今でも思う。
でも、きっとそれは、
子供たちにしても同じこと。
3人とも、それぞれ
いっぱいいっぱいだったはずだ。
生まれてきて、まだ数年。
長男でも十数年。
人生経験が少ない分、悲しい経験や不安な思いに
対する免疫は、私よりも、きっとずっと弱い。
小さい頃から心配性だった私は、
夜、真っ暗な部屋の布団の中で、
「もしお父さんとお母さんが死んだらどうしよう。
もしどっちかが死んだらどうしよう。」
よくこんなことを考えては、
怯えている子供だった。
両親に何かが
あったわけでもないのに。
きっと。当時。
子供たちは、私が小さい頃に
怯えていたあの夜を、毎晩のように
経験していたんじゃないだろうか。
その小さな体で。
誰にも代わって
もらうことのできない心で。
あの頃。
子供たち3人が、それぞれ何を思い、
何を考え、何を感じていたのか。
子供たちは、もう忘れてしまっただろうか。
それとも、まだ覚えているだろうか。
時には、何かを祈ったりも
したのだろうか。
いつか私に話してくれるだろうか。

