先日、「
レヴェナント 蘇りし者」を観ました。




主演のレオナルド・ディカプリオに

初のアカデミー賞をもたらした今話題のハリウッド超大作です。

ハリウッド映画、久々に見たな。。。えへへ…



ディカプリオが演じたヒュー・グラスという人物は、

実はアメリカではちょっとした英雄です。



時は1822年。

アメリカ原住民と移民との間で熾烈な領土争いが繰り広げられていた時代。

グラスは白人の探検隊に加わり、途中、クマに襲われて瀕死の重体となる。

そこで仲間に裏切られ、見捨てられ、極寒の荒野に置き去りにされてしまう。

しかし彼は意識を取り戻し、たった一人で武器も持たずに生還する。



映画は実際に起こった小さなエピソードも忠実に描いている。

唯一の脚色は、ストーリーの鍵となるグラスの息子の存在だ。

グラスは原住民と共に暮らしていた白人として描かれ、

原住民の女性との間に一男を設けたという設定である。

村が白人によって侵略され、妻を含め部族が皆殺しにされる中、

グラスは愛息子ホークの命だけは守りきる。

そしてホークとともに隊に加わって、

隊の密漁を手助けするサポーターとなる。



しかし、途中でクマに襲われる。

隊はフィッツジェラルドとブリジャー、そして息子のホークに、

グラスを看取り埋葬するという仕事を託すが、

元々グラスを嫌っていたフィッツジェラルドは

その命令に背いてブリジャーを騙し、グラスを置き去りにする。

その際、邪魔な存在であるホークは亡き者とされてしまう。



ホークが殺される瞬間を見てしまったグラスは、

出ない声を振り絞り叫びを上げるが、その声は誰にも届かない。

這いつくばり冷たくなった息子の亡骸に寄り添うが、

やがて彼は生きる覚悟を決めて、

フィッツジェラルドを追うためにその場を去る。





壮大なグラスのサバイバルを描いているように見えるが、

そして確かにそれが映画の根幹を支えているのは事実だが、

一貫して伝わってくるのは息子を亡くした父の深い悲しみだ。

展開が激しければ激しいほど、その悲壮感は増す。



息子が全てだった父にとって、すでに失うものはなく、

だからこそいつ死んでも構わないという精神力で生きる。

その生きる覚悟がまた悲しい。

精神が肉体の限界を超える瞬間が何度も訪れる。

エンディングに流れる坂本龍一の曲も秀逸で、

あれほどの生還劇を見せられた後なのに、

まるで喪に服すかのような静かな旋律が耳に残った。




人は生きるための強い目的があれば簡単には死なない。

でも生きることを諦めたら、そこで死ぬ。身体も心も。



ひとつ考えさせられることがあった。



途中、原住民の娘が白人に連れ去られ、

慰みものとなる時にグラスが助けるというシーンがある。

グラスは娘に「ナイフをとれ」と言う。

ナイフをとった娘はその白人に「タマを切り落としてやる」と言う。

実際、その娘はその白人に制裁を加え、家族の元まで生還する。



また、グラスが極寒の雪嵐を乗り切るために、

死んだ馬の内臓を取り出して、その身の中に入るシーンがある。

寒さを凌ぎ、嵐が去った後、彼はその馬に敬意を払って立ち去る。




これらを見て、今の私にできるだろうかと思ってしまった。

もちろん人を傷つけるための訓練など、今の時代に必要はないかもしれない。

しかし、生きるために、逃げるために殺傷が必要な瞬間が訪れたら?

必要に迫られたらできるものだろうか?



普段生活していると気づかないが、私たちは常に命を殺している。

今日食べたお肉や魚は元々動物であり、自由に生きる権利がある。

それを私たちの都合で殺している。野菜だって植物とはいえ、生きている。

命の重みを感じる機会が皆無だから、殺すべきときに殺せないし、

育むべきときに育めない、自分も含めそんな人が増えている気がする。



サバイブとは英語でSurvive、「生きる」ではなく「生き残る」という。

つまり生存競争に勝つことを指す。

だから、サバイバルに残虐性はつきものだ。

ただし、その先に敬意があるかどうかで、その行為の意味合いは変わる。

私たちが「サバイブ」するために失われる命があるのだ。



自分の手できちんと命を殺めて、その命を頂くことに感謝し、

命の巡りを感じて、その命を自分の身体で引き継ぐ。

こういう経験をすることは意外と大切なのかもしれない。