大震災から一年が経とうとしています。
あの日を境に人生が一変し、毎日続くと思っていたなんてことない普段の生活が突然奪われてしまった人たちは、それはもう、たくさんいるのだと思います。家族や友人、かけがえのない存在を失ってしまった方たちを思うと胸が張り裂ける思いです。「死を乗り越える」ことは口で言うほど簡単じゃない。いつも当然のようにそばにいた人が突然この世からいなくなるということは、おそらく、自分の体の一部を失うことと同じくらいの痛みなんじゃないかと思う。そして、おそらく激しい自責の念に駆られるのではないでしょうか。
「なぜもっと大切にできなかったのだろう」
「あのとき、どうして優しくできなかったのだろう」
「大好きなのに、なぜ素直に伝えられなかったのだろう」
9.11の大惨事で父親を亡くした少年、オスカーはその「死」を受け入れることができない。そんなある日、クローゼットに隠されていた花瓶の中からひとつの鍵を見つける。オスカーはそれを、父が彼に遺したメッセージだと信じて、その鍵で開けることのできる「鍵穴」を探す旅に出る―。
以前の映画記事( 映画のこと-「永遠の僕たち」
)でも書いたのですが、人の死を悼み、悲しむということは長い長い時間を経て自らも癒されていくということ でも、そこに達するにはまず、「死」を空虚なものから現実へ引き寄せる必要がある。オスカーはまず、父が自分にメッセージを宛てたと信じた。それを見つけるまでは、どうしても「悲しむ」段階まで進むことができないのだ。だから必死で探す。さまざまな人たちを巻き込んで・・・。
愚かなもので、人は失ってみて初めてその価値や大切さに気づくもの。ましてや「死」という過酷な別離は、魂は生き続けるとはいえ、ほぼ永遠の別れに等しい。そして、その準備をさせてもくれない不意の「死」は決して他人だけに起こるものではないということをきちんと分かっておかなければいけないのだと思う。オスカー少年の旅は、いわば、私たち全員が辿るかもしれない試練の旅ともいえるのだ。
先日、ホリスティック医療の大御所であり、私が最も尊敬する帯津良一先生のお話を拝聴した。彼は生・老・病・死、全てを統合したものこそがホリスティック医療なのだと言っていた。そしていつも、今日が最後の日であり、最後の食事だと思い舌鼓を打ちながら味わうのだと。全く同じことをスティーブ・ジョブスも言っている。今日が最後の日だとしたら、今やっていることは本当にあなたのやりたいことなのか?と。
大好きな人にはきちんと、大好きだと伝えよう
家族にはきちんと、感謝していると伝えておこう
毎日を愛でいっぱいにしておけば何が起こっても後悔などしない