河合隼雄先生と、中沢新一さんの対談本、『ブッダの夢』





親愛なるハーブヨガインストラクター☆link*mari先生のブログ
記事(←大ファンです^^)、「あなたは幸せですか?」シリーズ
リンク*mに深く考えさせられて、読み返しました。





読みたかったのが、千手観音と慈悲のくだり。





宮沢賢治の書きたかった何かを、河合先生は「非情な悲しみ」と表現します。





非情(情ではない)というのは、個と個の関係性に存在する個人的なセンチメンタルの「悲しみ」を超えて、さらに深い層まで(「死のすれすれまで」とも表現しています)を、静かにみつめていったときにぼ~っと浮かび上がるような、人の生の根本にあるインパーソナルソロー(非個人的な悲しみ)のこと。





ユングの共同無意識にも重なります。





そんな話から、中沢さんが、千手観音の話をします。(以下抜粋)





「観音様が観音様になる前は、常泣菩薩って言われてました。


いつも泣いてる菩薩さんです。


いつも泣いてる菩薩がいて、なぜ泣いているのかというと、世界をみると、生き物を見ても悲しくて悲しくてしようがない。


どんなちいちゃい生き物でも、みんな苦しみを背負っているのを見て、悲しくてしようがないから泣いてばっかりいた菩薩様がいて、それが次の転生(てんしょう)を果たした時に、観音様になるわけです。


常泣菩薩―常に泣く―というのは、センチメンタルで泣いてるんですね。


虫を見て、おばあさんを見て泣いたりしてる。」





「悲しみが極限まで来た時、彼はぽーんと飛んで、今度は観音の非情の悲しみに達する。


その時、観音様の慈悲というのが完成する。


センチメンタルの時は、慈悲でないんだと言うんです。


だから、その話も、ソローというもの―センチメンタリズムとそれが非情なものに移り変わっていく、何か重要なことを語っている話じゃないかなと思いますね。」





「常泣菩薩の時は、ああ悲しいと言って、無力なんです。


ところが、僕はここが賢治の科学と関係してくると思うけど、観音様になった時に、千手観音になるわけです。


つまり、千の手を持って、つまり技術を持つわけですね。


技術を持って実践に移っていくわけです。


非情な悲しみ―慈悲と言われるものを持って、あの千の手を持ち、千の目を持ったものになっていく。


賢治の科学ってこういうことも関係しているのかなと思います。」








最近の詩でも書きましたが、「悲しい」という言葉は、「愛(かな)しい」とも書きます。





「愛・繋がり」と「慈悲・非情な悲しみ」は、法(ダルマ)・理(ことわり)・真理・神といわれるものの具体的な表象だと思います。





そして、陰陽(太陽と月)のように同じものの表裏。





パーソナル(個人的)な愛や悲しみを超えた次元にある、





インパーソナル(生命そのもの)に内在している愛と悲しみ。





これを理解できた人は千手観音のように、多くの人々に手を差し伸べて救う技術をもつことができる。





そう、誰もが千手観音になることができる。





70万人が千手観音になれば、地球の全ての人、70億人が救われる。











愛の学び方は、 『アミ 小さな地球人』エンリケ・バリオス(絵:さくら ももこ)
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YOGAの詩(うた)








それから、mari先生のブログ 『地球の女子はハーブヨガでKIRIRI☆HARARAしているのかい?』





に載ってま~す^^