瞑想(meditation)を、わかりやすく解説してみたいと思います。


そもそも瞑想の定義とは、
「心を静めて神に祈ったり、
  何かに心を集中させること、
  心を静めて無心になること、
  目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。」
〜Wikipediaより抜粋〜



ヨガのルーツは瞑想です。

運動不足でストレスフルな現代社会には、ポーズや呼吸が親しまれていますが、実はそれらは瞑想のための準備段階。


さて、前述によると、「神に祈ること」も「静かに自分の思案と向き合うこと」も、どちらも瞑想。

全然違うようですが
共通するのは「深い集中状態」

「無心になる」というのも、仏教で「空(くう)」と呼ばれる状態への集中。

だから、瞑想の方法は本当に様々です。

ジャパ瞑想
マインドフルネス瞑想
ヴィッパサナー瞑想
イメージ瞑想
数息観
坐禅
……

何も検索せずとも、一瞬でこれくらいは上がります。

ちなみに、サンスクリット語のディヤーナ(瞑想)は、中国で「禅那」と訳され、日本に「禅」として渡ってきました。


スポーツ(だけに限りませんが)のいわゆる「ゾーン」も、深い集中状態がもたらす一種の瞑想といえます。



私は、弓道四段までとらせていただき、国体出場経験があるのですが、弓道は「動の瞑想」と呼ばれます。

的はあるけど、ただそこにあるという感覚で、身体の動きだけに完全集中できるときは、よく中(あ)たる。

中(あ)てようと、的に意識がいってしまうと、うまくいかない。

ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが自らの経験を著した『弓と禅』は、まさにそのことを伝えて、弓道の本質をあらわしています。




私たち現代人は、環境からたくさんの刺激を受けとりながら、慌ただしく時間に追われ、思考の波に溺れているような生き方をしがちです。

もちろん、仕事をしている上で、その状態が必要なタイミングもあります。

しかし、思考することが癖になり、オフでもつい仕事のことを考えてしまうとか、脳がオーバーヒートして眠れないとか、心身に影響を与えるストレスとなってしまうこともしばしば。

オンオフがうまくできない状態は、スイッチが壊れてるのと一緒ですよね。

スイッチが壊れて、ずっとオン状態が続く苦しみが、鬱や、最悪の場合、自殺を選んでしまう、強制オフにつながっているところもあると私は思います。




さて、ヨガの中では、アーサナ(ポーズ、坐法)は、瞑想の質をあげるためのもの。本来は、集中して長く坐していることができるようにするためのものです。

そして、ヨガには瞑想の先があります。


ダーラナー(集中)
ディヤーナ(瞑想)
サマーディ(三昧)


この3つは、ヨガで「サンヤマ」と呼ばれる、区切りなく流れるように集中が深まっていくことを示した一連の心理状態です。

対象に集中している意識が、自分と対象との線引きをしなくなる。これがダーラナーからディヤーナの流れ。

この部分を、弓道でいうなら、「的」と「矢を放つ自分」を分けて見て、的に中(あ)てようとする意識から、的と自分が区別されず、自然に(あ)たるという意識となること。

瞑想=「深い集中状態」は、通常意識とは異なる意識状態、例えば、喧騒にいるても周りの声が聞こえないとか、ボールが止まってみえるとか、感覚の変化などもそうです。

そして、その先のサマーディとは、わかりやすく伝えるなら、「個の意識を超えて、すべての繋がり(真理)を覚る」トランスパーソナルな超意識状態。悟り、そして解脱ですね。
これは、ヨガの最高目標です。

あやしくなってきたので(笑)、サマーディを詳しく述べるのは、別の機会に譲るとして、瞑想の話に戻ります。



今、新しいスペース作りのためにテナントを借りて、簡単な内装を自分で手がけています。

ある程度整ったお部屋なのですが、かなり事務所っぽいので、スクールやサロンとして、研究室としても心地よく過ごせるような空間づくりを工夫中です。

最初にはじめたのが、ペンキ塗り。
これが、瞑想のようで心地よい。

決して上手くないので、DIY的仕上がりですが、美しく塗ろうと集中する心理は、あれこれ思考するゆとりを与えず、心の不要な波を消していきます。

集中しすぎて、身体が固まって、やっぱりアーサナ(ポーズ)って必要ね!と思ってみたりw

そんな風に、ここ最近はペンキ塗りに集中(瞑想?)しており、すっかりブログ更新を怠っておりました。

そして、床も貼り直したくなって、ペンキ塗り瞑想の次は床貼り瞑想になりそうです。

ものづくりをする人やアーティストも、やはり瞑想しているのだなと思います。

宮大工、仏像を掘る人、曼荼羅を描くなど、集中する対象が、神仏であれば、瞑想は深まりやすいかもしれません。

瞑想の目的が、エゴか、探求か、祈りか、によっても違います。


瞑想はどんな対象でも可能だけど、その先のサマーディの境地に至るには、対象と目的を精査することも必要だと思います。


瞑想、してみたいなと思った方は、まずは、呼吸を深めて集中する時間を5分でも作ることからはじめてみてください。
5分呼吸だけに集中するのも、現代人にはなかなか難しいものです。

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ヨガと瞑想、ホリスティックケアのためのスクール&サロンは、本格始動は来年の春。

アルモニオープンから、10周年を迎える2020年2月には、お披露目できたら良いな〜と思っています(^^)♪




写真は、我が家のご近所の春色を。


ウパニシャッドに示される真理


「梵我一如」の思想


ブラフマンとアートマンとよばれる


宇宙原理と自己原理は


ひとつながりで同一であるという考え方です


(ウパニシャッドは、数多くの書の総称で、ヴェーダンタとも呼ばれ、ヴェーダの最期の智慧の書とされています)




私が、この梵我一如を説明するとき、必ず使うのが


宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」の一節


個にして全
全にして個
ある偉大な王蟲が教えてくれました



(映画のナウシカは、駿さんの描いた漫画が原作で全7巻。でも映画は2巻の途中までの内容。知らない方はぜひ漫画読んでください♪)


王蟲は、自然に対する人間の愚行に対して


人を滅ぼそうとするのではなく


自然の均衡を保ち森を作るために


自らが新たな森の苗床となるために死んでいく集団行動をとる


それは全の意識と通じているゆえの行動




この王蟲の行動を人間に例えるなら


免疫系が己に害を与える異物に対して、白血球たちが細菌をとりこみ死んでいくのと同じ


でもそれは、プログラムのように決められて動くロボットなのではなく


「全にして個」


それぞれの意思がちゃんとある


意思が総じて全を成していく


だから、世界はドラマティックなんだと思う


だから、せかいは美しく儚く愛おしいのだと思う


変化し続ける世界がどんな変化をしていくか


未来の方向をひとりひとりの意思が全となって大きな波のようにうねっていく



一粒の雫


ハチドリの羽音


あなたの想い



ひとつだけではとても小さいけど


小さき美しい波動が集まり続け


いつか、うねり、渦を巻く


そのうねりは、その風は


きっとせかいをもっと素敵にしていく





個の深淵には全がある


個人の潜在意識は、さらに深く潜ると集合意識に辿り着く


ヨガや瞑想は、その深淵を知るためのツールです


ちなみに、、、

ヨガで、オーム(AUM)は、イーシュヴァラ(至高の存在)をあらわす聖なる音。
宮崎駿さんが王蟲(オーム)とつけたのは、意識的なのか、無意識なのか、ぜひ知りたいです(^^)





働くことは


傍(はた)を楽(らく)にすること


齋藤一人さんの言葉です


私たちが生きているこの社会は


みんなのサポートの仕合いで


誰かができないことを誰かがやってくれて成り立っている


ひとりひとりがその一端


そうやって、現象世界が展開していくのを思うと


自然界が繋がり合いそれぞれの役割をもっているのと同じなんだなと思います


そもそもの「はたらく」の語源は


とまっていたものが急に動くことを表して


それが、身体を動かす意味となり


人が動くで「働」という字が作られたのだそうです


ヨガの哲学では


現象世界(宇宙)のはじまりは


根本原質(プラクリティ)が展開しはじめたこと


まさに動きが生まれたことで


世界が現れ展開していく


思考や感情すらもこの展開(動き)の中にある


大いなる自然(大宇宙)も


人ひとりひとり(小宇宙)も同じ


動くこと、働くことは尊い


家事をすることも
子どもたちが遊んでいるのも
ヨガを教えるのも


みんな、はたらくことをしている


そして、その現象世界の展開は


プルシャ(自己原理)が観賞するため


みられるものがなければ、みるものは存在できないから


まさに、プラクリティはプルシャのために、はたらいているんだなと思う

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『ヨーガ・スートラ』


2-18

観られるものは、自然の性質である3つの要素(サットヴァ・ラジャス・タマス)により成り立ち、変わり続け、感覚を通して体験できるものです。それは、経験と悟りのためにあります。


2-21

変化するものは、それを観る存在のためにあります。