人間万事塞翁が馬 丙午ですが何か?

人間万事塞翁が馬 丙午ですが何か?

丙午生まれです。まもなく丙午の年が来ます。山形生まれ、バブル期を東京で過ごし、家を継ぐために山形で暮らしています。昭和、平成、令和と時代をめぐって稀な世代『丙午』とは何なのか自問自答の人生です。

上京して東京人になり、四季を通して生活して、いろんな人々との出会い、店との出会い、(感覚として)物事との出会い、そして経験。やはり良い事もあれば悪い事もある。ビギナーズラック的な事があって喜んだ事もあれば、次は失敗して落ち込んだり、そこはお天道様は平等に見ておられるなと、すごく感じたものでした。ただ、振り返れば振り返るほど、

高卒の、一番多感な時期と、丁度バブル期になる日本経済が重なって、そして稀な年代”丙午生まれ”の自分が、日本の首都東京で、時代の流れに沿いながら経験した事柄は、今となっては不思議な感覚がするこれら巡り合わせを、自分が振り返って解明したいというか、そんな気持ちは何となくご理解頂けているか分かりませんが、そんなところです(笑)。

中間報告的に↑を書いておかないと、ともすれば自分でも大儀がぼやけてしまうかもですし、似たような方がいれば情報の共有、提供を願いたいのです。まだまだ続く予定ですので気を長く情報お待ちしております。

 

ある日、店のオーナーから職人皆に、今も行われている「ジャパンケーキショー」の前身「東日本洋菓子展」に参加しろ、言われました。前出の通りオーナーは、当時東京都の洋菓子協会の副会長であり全国のそれの評議員でした。参加せよとは作品を出せと言う事です。職人の作る菓子のコンテストがあり、花形はマジパン細工デコレーションという工芸菓子の一種です。ただ我々の職場ではテキスト本しかお手本が無く、プチ店おのオーナーがフランスや銀座での経験からその手の工芸作品は長けてらっしゃるのでした。

自分たちの乗った車と、乗客を乗せたタクシーが信号の無い交差点で出合い頭に衝突したのは寒い冬?だったと記憶しています。確かけが人は出ていないかごく軽症で済んだ感じで、あまりの突然の出来事で当時の事は、事故の瞬間は覚えてはいるのですが、詳しい日時だとか何処からの帰りだったとかあまり覚えていません。双方の車が大破してしまい、暗い車外に出て段々と事の重大さに気持ちが引いて来たのを覚えています。外は深夜で寒かったので冬だったのでしょう、双方の車に4人位ずつ乗っていたので心細くは無かったのですが、最年少の自分らは程なくタクシーで返されました。パトカーが来たのは覚えていますが現場に長く留まっていなかったので詳細は分かりません。

アパートに帰って、どうやって朝を迎えたのかも覚えていません。翌朝、何事も無かったように出勤して程なく、オーナー一家が烈火のごとく我々を叱責しました。身を案じての事でしょうが、後にも先にもあんなに怒られた記憶はこの時だけでした。プチ店への訪問や手伝いは自分たちの自由意思で行っていたので、その後の食事会の事などオーナー一家は知る由もありません。たぶん早朝に連絡が入ったのでしょう。プチ店のオーナーは警察に数日間拘束される事になったと知ったのもこの時です。当時まだ緩かったとはいえ飲酒しての運転で事故を起こしたとされたのです。何と言う事でしょう!同乗していた我々も同罪です。こうして初めて事の重大さに気付かされたのでした。今思えば地方出身者を預かるオーナー一家としたらとにかく怪我とかしてなくて良かったのでしょうが、本人達にも相当の自重を求めるのも当然です。

 

数日後、同乗者の代表として、プチ店オーナーが拘束されている警察署に情状酌量を求める調書を取る名目で行かされました。ご本人とは会えませんでしたが、ただただ自分たちは反省し、プチ店はオーナーパティシエとしてその人の人望があっての人気店であり、その方が早く復帰出来なければ品揃えに影響が出るので早く復帰してほしい旨を書きました。その足でプチ店にも行ったような記憶がありますが、先輩職人一人黙々と仕事をしていた感じで、どう言葉を交わしたのかも覚えていません。

程なくプチ店のオーナーは帰って来まして、自分たちとも無事会いました。逆にすまなかったねと言葉を頂いた記憶があります。その後は普段通り、時間があるとプチ店詣では続いたのでした。

プチ店を含めた工場の先輩方々、先輩とはいえ年齢も近く、皆地方出身で仲間意識は強く、面倒見も良くして頂きました。例によってプチ店の手伝いに行って時間があると、皆で居酒屋に行ったりして色んな話をして、親交を深めました。時には北関東出身の先輩が実家から車を乗って来ていらして、そんな時は夜な夜なドライヴにも連れていかれました。”連れていかれた”と言うのは、一番下の自分は朝が早く工場に行かなければならず、夜更かしすると朝が辛かったからです。それでも若き我らは時には湘南まで足を延ばしたりしました。コンビニはまだ少なく、ファミレスが国道沿いにポツンポツンと立って来た頃だったでしょうか。湘南の、ある街道沿いの、出来たばかりらしい、オシャレな深夜営業のファミレスに初めて入ったのもそんな状況の時だったと思います。

今では全国で当たり前のファミレスもコンビニも、日本での草創期に体験できたのも興味深かったです。眠い目をこすりながら新しい産業と先輩たちとの交流は、バブル期でまだまだ進化する食文化や都市の姿など、まだ序の口でしたが興味は深まり、好奇心をくすぐるモノでした。当時はそれが東京!?と思ってワクワクしていただけでしたが。

そして次の日は普通に工場に行って、平然と仕事をこなすのですが、流石に昼食後などは眠くて仕方なかった記憶があります。

 

またある時はプチ店のオーナーが皆を誘って下さいまして居酒屋で会食、となった事もありました。プチ店のオーナーも交友が広い方でフランスでの修業時代に現地で知り合った日本人パティシエや、レストラン関係者が多く店にも来ていたようです。

その日はちょっと離れた所へオーナーが車で連れて行って下さると言うのでついて行きました。事故はその帰り道でした。