昼下がり、新年になって初めて大家の家に家賃を払いに行く。
呼び鈴を押し、玄関先で大家が出てくるのを待つ。
外は冷たい風が吹いている。
しばらくブログを書かない間に、季節は真冬になっていた。
私もその間に誕生日を迎え、またひとつ歳をとった。
これが幾度目の冬だろうか。
玄関先でそんな感傷にとらわれていると、インターホンからどうぞお入りください、という大家の声が聞こえたので、ドアを開け中に入る。
大家は既に玄関に立っていた。
私はいつもどおりに家賃の入った茶封筒を差し出す。
だが、大家はうつろな目で茶封筒を眺めるだけで、受け取ろうとしない。
「実はあなたの家賃を受け取れなくなりました。」
大家は弱々しい声でそう言う。
「私の姿を見て何かおかしいと思いませんか?」
私はそう言われて大家の頭から足の先までを眺める。
しかし何も変わった様子が見受けられない。
「おかしいところとは、なんでしょうか?」
私は見当もつかないので恐る恐る問い返す。
「気付かないのですか?あなたの目はどうやら節穴のようですな」
私はそう言われて、もう一度まじまじと大家の頭から足の先までを眺める。
すると、セーターを着た大家の右腕の袖がだらしなく下にぶらさがっているのに気付いた。
「ようやく気付いてくれましたね。実は私は新年早々、右腕を無くしてしまったのです」
確かに大家の右腕のセーターの袖は力なく垂れている。
「なくしたというと・・・事故か何かに遭われたのですか?」
私はまた恐る恐る尋ねる。
私は子供の頃に読んだ楳図かずおの漫画によく登場した焼夷軍人を思い出し た。
戦争で片腕や片足をなくした元軍人が街頭で募金を募るのだ。今では考えられないが、終戦直後にはそんな人達が街頭に立って通行人から施しを受けて暮らしていたそうだ。
「いえ、うっかりしてどこかに落としてしまったのです。」
私は思いもよらない答えに愕然とする。
「落とした?落としたとはどういうことですか?」
「元旦の日に隣町にある神社に初詣に行きました。そのあと、家に帰ってきて、湯を沸かしてお茶を飲もうとしたら、湯飲みを握る手がないことに気付 きました。その時どこかに落としたのだと思い、慌てて初詣をした神社まで引き返し、もう一度賽銭を投げ、右腕が見つかりますようにと祈ろうと しました。しかし片腕がないせいで拍手を打つこともできないのです。」
「落としたというなら、外に落としたのですか?神様に祈る前に自分で探したのですか?」
「もちろん探しました。神社から家までの道筋でどこかに落ちてないかと。警察にも届けました。しかし警察も老人の腕の落し物など聞いたこと がないと相手にしてくれません。」
そこまで聞いて、私は大家にかつがれてるに違いないと思った。
あのセーターの内側の胴体のあたりになくしたという右腕を忍ばせていて、なんちゃってねーなんて言いながら、セーターをめくって右腕を誇らしげに出してくるという新年早々くだらない冗談をかますつもりなのだ。この大家 ならやりかねない。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。
そう思うと、私は怒りさえおぼえてきた。
「あなたが必死に働いて稼いだお金でもあるその家賃を片手で受け取るなどという無礼な真似はできません。」
大家は神妙な顔で言う。
「そこであなたに頼みたいのだが、私の右腕を探して見つけてくれたなら、その家賃は払わなくてもいい。」
私は大家の突然の提案に驚いて尋ねる。
「払わなくていいというのは、その、つまり・・・」
「免除します。もし右腕が無傷のまま帰ってきたなら、今後半年間の家賃を免除してもいいです。」
「それは本当ですか?」 私は思わず尋ねる。
「私を疑っているのですか?」
大家の真剣な目つきを見て、私はさっきまで心にあった怒りが急速にしぼんでいくのがわかった。
半年間の家賃が免除?なんて素晴らしい!
今まで買えなかったものが買え、今まで行けなかったところに行ける!
私は家賃の入った茶封筒をポケットにしまい、大家にもう一度、尋ねる。大家が真剣な眼で、大家の名にかけて約束しますと 答えたのを確認し、すぐさま大家の家をあとにした。
右腕さえ見つかれば!家賃のない生活が・・
そう考えただけで私の心はわき立ちざわめくのだ。
私は右腕が落ちていそうな場所、ありとあらゆる場所を目を皿のようにしてくまなく探し回った。
道路の隅、公園の草むら、駐車場の車の下、自動販売機の下、コンビニのゴミ箱の中、通りかかった小学生のランドセルの中・・・しかしどこにもなかった。それどころか、ランドセルの中を見してもらった小学生が母親を連れてきて、うちの子供のランドセルを勝手に見ないでくれ、あなたは何をしているのだ?と詰問され、知り合いの人の片腕を探しているのです、と答えると、母親は今すぐこの付近から出て行かないと警察を呼びます、と強い口調で言う。私はそそくさとその場を去る。
どこにもない。
私は尚も探した。
気がつくと、町のはずれにいた。
町のはずれからは見渡す限りの荒野が広がっている。
夕暮れの弱い光が荒野にわずかに茂った草木を照らしている。
ここから先は隣の町の住宅地があったはずだが・・・私はそう思いながらも荒野に分け入り、生い茂った草木を避けながら右腕を探す。
次第に陽が陰ってきて、地面にあった私の影もなくなり、陽が沈むと、明かりのない荒野は真っ暗になった。もはや、右腕の捜索は困難になり、私は呆然とする。
振り返ると、遠くに町の明かりが点々と見える。
私は自分が何をしにここまで来たのかわからなくなる。
なくした右腕。しかも私のものではなく大家の右腕。
そんなもの・・・あるはずがない。
私の中で急速にそれまであった熱が冷めていくのがわかった。
私は寒さに震えながら、荒野を町の方向に引き返した。
町まで戻り、自販機の前で立ち止まる。
すっかり冷えてしまった体を温めようと思い、缶コーヒーを買おうとしてポケットの財布を右手で取り出そうとするが、右手がポケットを探り当てることができない。
その時、私の右腕がないことに気付く。
右腕があるはずのダウンジャケットの袖はだらしなくぶら下がっているだけだった。
左手で右腕の根元を探る。ない。そこにあるはずの右腕がなくなっている。
落としたのだ。大家と同じようにどこかに右腕を落としたのだ。
私は頭の中で、今日一日の記憶を探る。しかしどこで落としたのか全くわからない。
私は慌てて今来た道を引き返し、町のはずれの荒野に再び足を向ける。
荒野の前まで来て立ち尽くす。明かりのない荒野はただ深い闇があるだけだった。
私は自分の右腕の捜索をあきらめ、すごすごと引き返す。
さっきの自販機の前までまた来る。
すると、自販機の小さな明かりの中に、大家が立っていた。
「大家さん、私も右腕をなくしてしまいました。私の右腕を知りませんか?」
私は消え入りそうな声でそう尋ねる。
「あなたもですか?それは可哀想に。しかし私の右腕は見つかりました。」
大家はそう言って、私に誇らしげに右腕を見せる。すると、大家の右腕の手首に見覚えのある時計がある。
「大家さん、その時計は私のものです。」
それは私がなくした右手にしていた腕時計だった。私は右手に腕時計をする習慣がある。私は右手の甲にある小さな傷も見つけた。2週間程前に仕事中に右手の甲に小さな切り傷をつけた。その傷が大家の右腕にある。私は気付いた。
「大家さん、その腕は私の腕です。返してください!」
「何を言ってるのですか?これは私が探していた私の腕ですよ」
「違います。その時計。その傷。それが私の腕の証拠です。返してください」
私は大家の体から右腕を離そうとするが、片手しか使えないので自分の右腕を捕まえることができない。
大家は私の右腕で私を振りほどく、しかしわたしは尚も大家の体から私の右腕を離そうとすると、顔面を激しく殴打された。衝撃で地面に崩れ落ちる。
私は自分の右腕に殴られるという屈辱を味わい、地面に突っ伏したまま、立ち上がることができない。
「なるほど、この腕は若くて力強い。しばらくはこの腕を借りますよ」
大家はそう言って、踵を返して立ち去ろうとして、また立ち止まり、こう言った。
「あなたにいいことを教えましょう。この先に公園がある。そのゴミ箱に誰かの右腕が捨ててある。良ければその腕をはめてみなさい。老いぼれの右腕なのであまり役にはたたないかもしれませんがね。」
大家はそう言い残してその場を去っていった。
私は立ち上がる気力もなく、そのまま地面に突っ伏していると、通りがかりの女の人が大丈夫ですか?と
声をかけてきた。こんなところで寝ていると危ないですよ、とその人はにっこり笑っていう。綺麗な人だったので私は恥ずかしくなり、すみません、ちょっと、飲みすぎたみたいです、とごまかし、私は片手で立ち上がる。夜の闇で最初わからなかったが、その人は車椅子で両足がなかった。
「その両足はどうしたのですか?」
普通ならそんなことを初対面の人に訊かないだろうが、右腕をなくしたショックで私の精神がおかしかったのかもしれない。
「誰かに盗まれたのです。今は誰かがどこかで私の両足を使って暮らしているはずです。」
その人はまるで店の前に置いていた傘が盗まれたみたいにそう言うと、こんな地面で寝るよりベッドで寝たほうが暖かいですよと言って、車椅子を押して夜の闇に消えた。
私は言葉がなかった。
大家が言った場所にある公園で、右腕を見つける。公園の街灯に照らされたその腕はシワくちゃのか細い
腕だった。私はその腕をゴミ箱に戻し、片腕のない体で家路をたどった。
アパートに帰り、ベッドに横になる。ほんとだベッドのほうが暖かいと思った。
大家に盗まれた右腕のことを考える間もなく、私は眠りに引き込まれる。
目覚めると、部屋いっぱいに朝の光が広がっていた。
カーテンを閉めずに寝ていたらしい。
私は起き上がり、台所でポットに湯を沸かす。
コーヒーを淹れ、右手でカップを持ち、昨夜見た夢を思い出す。
嫌な夢だった。右腕がなくなるなんて・・・
私はコーヒーを飲み終えると、家賃を入れた茶封筒を持ち、大家の家に行く。
外は真冬の冷たい風が吹いている。
大家の家の呼び鈴を押すと、インターホンから大家のどうぞ、の声。
私はドアを開け、中に入る。
大家は玄関に立っていた。
大家は弱々しく言う。
「私の姿を見て、何かおかしいと思いませんか?」
(おわり?)