※この記事に書いてある史的な情報は私が時間もかけずにサラッと調べたものなので誤った内容もあると思います。サラッと流して下さい。
先月、8月はお盆があり、それに夏といえば怪談が恒例になっていることもあり自然とそんな話題にもなり。私も歳を重ねていくに連れ様々な別れの経験を通し、自然と死後の世界や霊について考える時間が増えていく。
考えているといったって特に情報を仕入れるわけでもなく、ただただ自分の中で思いを馳せて妄想してるだけですが。
その程度の私の答えはいつも前に進まず結局科学頼り。
「死んだら肉の塊になる。無。それだけ。」
というなんの慈悲も持たぬ結論にしか至らない。科学だって今はもう少し魂という存在を明らかにしてきているというのに。
でも死んだ先に死後の世界が続くとは思わないし、霊となってココに居続けるものだとも思わない。それに天国や地獄のようなものがあるとも思えないんだよね。
テレビや映画でホラーを見るのは苦手だから、いるはずがないという思いの他に、怖いからいて欲しくないって想いもある。
だがこの先両親だったりペットだったり、自分の大切な存在が先に死んでいくのだとしたら、「先に天国へ行って待っててね」なんて都合のいいセリフも言いたい。そういう時だけちゃっかりね(笑)
しかしその場合、だいたいの人間は老人になってから死ぬわけだし、私も運よくある程度の長生きをして、運よく天国へ行き親子の再会をしたとして。。。その前に私の両親はさらに祖父母と先に天国で再会してるはずなんだけども、そーなるとその繰り返しが行われてきているわけで、天国は老人だらけで超超超高齢化社会となるわけだ。
それをいうと、魂には年齢の概念はなくそもそも今とは別の、人間では無い姿をしているんだよ。なんて誤魔化して納得させてくる人がいるけど、でも霊が姿を現す時って死んだ時のままの年齢、姿形である事が多いじゃないですか。いや知らないけどさ。見たことないから。
で、それをいうとさらにこう反論がくる。
姿を残したままの人はこの世に強い未練がどうこうってことに。んー。それは不公平だし見える派にとって都合良すぎる。
そこでまぁ、知りたい事はとりあえずネットでサラサラ~っと。
調べていくと、私みたいな考え方ってのは無宗教人間の典型だということが判明。都合いい時だけ大義名分のように科学の盾を発動させて非科学を否定するんだからそうですよね。
寝付けない夜にベッドで考えたんですが、眠っている時の夢を見ないとか、見たことないよとか言う人がたまにいるんだけどこれは科学的に言えばありえないことで、レム睡眠といわれるタイミングでは人は絶対夢を見ているはずなんですよね。だから見ていないのではなく覚えているかいないかということになる。つまり個人差。
これを霊を見るか見ないかに当てはめてみると、本当は見ているはずのものを何かしらの理由があって見ていないことにして脳が処理してしまっているのかなーとも、言える。強引だけどね。
しかしそこで、霊が見えるというお客さんの1人に言われた事を思い出しました。
「先生は見ようとしていないから見えないだけだよ」と。ふむぅ。。。確かに見たくはないよー、怖いもん。
「霊が見える」「霊を見たことがある」って人が多くいるのは事実。
霊媒師だとか霊能者だとか、それを商売にしてる人に聞いてしまったら本当はいなくたって「いる。」と答えるのは当然なんですが、霊を信じる人、見える人の中にはそんなのを商売にしてるわけでも、見える事、見えた事を他人に伝える事で自分の利益に繋がる事が無い人もたくさんいるわけだ。そういう意見を無視して、「霊なんているわけねーだろバッカじゃねーの?」なんて決め付けるのは、まさに愚の骨頂。
こっちょりたくない私はこの夏、聞ける範囲だけでも他の人の意見を聞いてみようなんて思い、お客さんだったり会った人だったりにチャンスがあればそんな話を持ちかけていた。もちろん専門職の人には聞かないさ。偏りがあっちゃいけないから。知識ある人に対して私には太刀打ち出来る知識がないからね。だから今論じたって意見の相違で終わるだけ。
だからあくまで一般人だと思える人に聞いてみた。
「アナタハ神ヲシンジマスカ?」ならぬ、「あなたは霊を信じますか?」という問いかけを。
その中で体験談や親類に起きた話等、参考になる話はたくさん聞けました。もちろん否定的な意見も含めて。
霊を否定する意見の中にはとても現実的で納得出来る話もあり、私はどちらかといえばそっち寄りなのでふんふんと頷ける事も多くありました。そーだよねー絶対いないよねーいるはずないよーっ、だって怖いもん。と同調。
だが、いくら論じてもそれは霊がいない証拠とはならないただの思考。
それに比べ霊を肯定する側の意見は多くの場合、思想とかではなく実体験に基づいているので非科学的だとかどうこうじゃなく、それは現実に起きた事なので私には否定出来る材料何も無いんですよね。。。さらに、見える人や信じる人の話を聞いているうちになんとなく共通点を感じました。
それは、意図してるのかしていないのか、何か私にはわからない事を隠しているのかなーって疑念が。。。思いすごしだと思うけどさ。
見える人ってのは何か私のような見えない人間には及ばないステージに進んでいるのか?そしてそれは秘密の内容なの?言えない事なの?って感じてしまう事が、何人かに対してありました。何か口を濁すような素振りが・・・。
そんなこともあり私はとにかく、いるのかいないのか真実を知りたい。真実があるのならそれを教えて欲しい。じゃぁ、真実はどこにある・・・・?
っと考えていくと、日本で霊が集まる場所といえば、、、墓場。墓場は寺が管理してる。つまるところ、、、答えは仏教か。っという考えに至る。例のごとく安直。
今思うとどこかのお寺に赴き、住職さんに教えを請えば早かったかなと思うところですが、仏教に関して何も知らかった時点での私は、住職や僧と呼ばれる人をただただ厳しい上納金を稼ぐ為原チャリ片手に走り回る金儲け第一主義の悲しい職業で、上納金を受け取る総本山とかで暮らす数少ない偉い人間が権力にあぐらかいてなんかわけわからんお経読んで、
今日なんの修行するー?
見学者の一般人共何見せたら喜ぶー?
今日のお布施足りないからサービス念仏唱えてこいよ下っ端共ー!!
とか言って遊んでんだろな、くらいひどいイメージ持っていたので(お坊さんすみませんm(_ _)m)、お坊さんに仏教を教わるという選択はしませんでした。(多少勉強してみたらみたで、枝分かれし過ぎた宗派によって教えや解釈が異なってしまうので、結局どの宗に属する住職に聞けばいいのか、皆目検討もつかないままですが。
もーちょい勉強すれば聞くべき存在を間違えないかもしれないですね。ただ、それも自分にとっての、それぞれにとっての存在がいる。)
でまぁそんな状態だったので、ヒトに分かるはずのないテーマを同じ現代に生きるヒトに聞いてもしょうがない。とりあえず仏教の大元であるお釈迦様の考え方を覗いてみようと思い、また安直ですけど日本で1番メジャー?っぽいお経、『般若心経』を読んでみることから始めてみました。これまで読んだことも無かったですからね~。
「色即是空、空即是色」1度は誰でも聞いたことあるフレーズだと思いますが、般若心経のお題はこのフレーズに全てあると私は理解しました。
仏教ってのは一言で言うとこの世の苦しみからの解放がテーマのようですね。
色即是空~ってのは、自分というのはここにいるようで本当はいない、実体の無い偶然の今の状態でしか無いのだとか。自分がいないのだから、感じてるはずの痛みも苦しみもあるようで本当は無いのだから、いつまでもそんなことに執着しているんじゃないよってさ。詳しくは般若心経の現代語訳みたいなのを調べて読んでみてください。その訳が合ってるとは限らないわけだけど。
しかし般若心経には、とてもいいことが書いてあるのは確か。親が死んだ時は私自身で読み上げてあげようかなとも思えました。既に半分は覚えてしまいました。短いから簡単ですね。
さて、確かに自分を自分たらしめている確たるものは何かと考えると、よくわからなくなりますね。身体と心があって自分。じゃぁ、身体と心に分けた場合どちらが「自分」の核になるのか。
例えやすい最近の話題だと映画『君の名は』
私は観てないんだけど、あれは男女で身体と心が入れ替わっちゃうんでしょ?あーなった時、、、、どちらが自分なの?
主観で言えば心を所有する方を自分と答えるだろうけど、それを知らない周囲から見たら身体を持つ方を自分として扱うはず。ほら、どちらが自分?
さらに言うと、津波や大火災なんかで家財全てを失い、ご近所さんや親類も一切いなくなってしまい裸一貫自分だけが助かった時、市役所に行って「わたしはどこどこに住んでいた阿部という者です。」と証明しようとした時に、もしも自分より先に自分の住所と名前を市役所に報告し、我こそが阿部だ!っと言い張る人が出てきたとしたら、自分以外に自分を証明する者はおらず、他人には区別がつかなくなってしまいます。
身体と心が揃っていても、普段「自分」だと思い込んでいるこの存在は、他者から見ればそれほど儚い存在だったりもしますよね。
いるようでいない。自分がここにいると思っているのは自分だけかもしれない。自分が自分である事を自分の心と身体だけで誰かに証明することすら出来ない。個なんてあってないようなものでもある。
…だとしてもだ、確かにここに自分という心と身体があって、私は存在しているよー!って言いたくなりますよね。
しかし、先ほど心を持っている方が主観で言えば自分だと言いましたが、その主観ですら自分の物なのかどうか、考えてみると怪しい。自分の考え、気持ちってのは自分の中から生まれたものなのか?いや、それは全て他者から与えられたものなのでは?
般若心経は釈迦が弟子に対し、色即是空~等の内容を語っているわけですが、そもそも弟子が師匠の教えを享受する事が既に自己崩壊なのかなとも思いました。
そう考えると私には般若心経がこうも聞こえてくる。
弟子よ、私の言った事を鵜呑みにして信じるお前の考えは本当に自分の考えだと呼べるのかね?私の考えを是とするお前は自分よりも私に近い存在なのでは?つまり、お前がお前だと思っている人間は、お前ではないのだよ。
なんてね。
確かに、多少でも思考をコピーしてたり洗脳されたりしていたら、その心は自分だと言えるのだろうか?
だからといって釈迦はそれを否定しているわけではなく、身体も心も成長や体験によって常に変化していくものだからこそ、今この時の自分てものはあるようで無いと言っているのですが。
これでいうと人を信用しやすい人、騙されやすい人程自分なんてものがさらにあやふやな存在になってしまいますね。
例えばよく当たると評判の占い師が東に引っ越せと言ったから引越したとか、これを買えば運気が上がると言ったから買ってみたとか。
信頼する人の意見を参考にして自分の考えをまとめるならまだしも、あの人が言ったから間違ってるはずがないだとか、本当は何の根拠も無い事を正解だという前提で考えを進めてしまう人は自分がないと言われても仕方がないですよね。
でも釈迦は、そうではなくなんでも自分で考えてる(と思い込んでる)人間の考えすら自分のものではないと言う。きっと今私がここに書いている文章も、釈迦に言わせれば私のものであって私のものではないというのだ。。。
でも確かにそんな気はする。今ここに書いてある文章は私が今まで見聞きしてきたことの集合体でありその一部、数多くの「私」の一部なのだからね。たった1つしかない自分ではなく、自分も「集合体である私達」の一部にしか過ぎないってわけだ。んー。壮大。
般若心経読み始めたら霊の話が飛んじゃったんだけど、まずお釈迦様って人物の言葉を信じるか否かってのを見定める為に少しだけ仏教にも触れてみました。そしてその結果釈迦はとんでもなくすごい人だっ!っとは思ったんだけど、もう少し調べてみたら実は、、、いや最初に気づけよって事なんだけど般若心経に限らずお経ってのは全て、釈迦の言葉を聞いた弟子達が後世に遺す為に文章にしたものなんですね。つまり、著者は釈迦じゃない。。。
著者が本人じゃないってことは、それはどーしたって書いた人間の主観が混ざるって事になりますよねぇ。既にそこでお経はもしかしたら釈迦の言葉とは違うものである可能性浮上。しかも没後五百年も経ってから編纂されたりもしてるそうだし。
さらにいえば釈迦は北インドの人物でお経はこの地で使われていたサンスクリット語という古代語で遺されたもの。それをあの有名な三蔵法師さんが猿と、豚と河童と、あと犬とキジと桃を連れた旅をしつつ漢訳してから、なんだかんだあって日本にも伝来したみたいですね。犬とキジは連れてないかも。あと漢訳したの三蔵さんだけじゃないけどね。もう全部Wikipedia調べですけど。ほんと安直。
この翻訳ってのがまたひっかかる。英語なんて全然わからない私ですら、最近の戸田奈津子さんが訳した字幕映画は絶対原文のニュアンスと合っていないんじゃないかと思うくらい変だなーって感じるセリフもあるので、三蔵法師さんがどれだけすごい人であったとしても翻訳で多少意味合いのズレもあったんじゃないかなーと考えてしまったり。
聞き取りでズレて時間経過でズレて翻訳でズレて、そーなっちゃうとそこからさらなる時間経過のうちにどんどん自由な解釈で宗派というものに枝分かれもし、世界各地に散った仏教のどこにオリジナル釈迦の教えが残っているのかはわからない。残ってないと考えた方が自然かもしれないくらい。
釈迦に言わせれば教典自体もあるようでないものなのかもしれないから、本物がどれかなんてどーでもいいことだよって事なのかしらねぇ。
本当の釈迦の教えがわからないのでは、仏教に答えを求めるわけにはいかないのだけど、何も釈迦の考えじゃないかもしれないからといってこんにち在る仏教を蔑む必要もない。
弟子が師匠を超えることなんてむしろ当然の事だし、釈迦がいなくなって2,000年以上経過する間にどれだけ研ぎ澄まされたのかと思えば、むしろ現代の仏教の方が遥か先が見えているのかもしれない。
だが一方で、、、般若心経1つみただけでも現在ある全ての自己啓発本や自己啓発セミナーの遥か上をいく言葉を釈迦が、いや弟子が残しているんだということを理解できたので、、、やはり釈迦様及びその最初の弟子達は、、、侮れない。
あ、霊の話に戻ると、仏教では霊の存在は認めていないみたいです。ってのが多くの意見のようだ。。。
な~んて・・・これもどこの時点までを仏教と呼ぶのかにもよって答えも変わるし解釈によっても変わるし、私もこれからどこまでも突き詰めて仏教を学ぶ気はないので教典をいくつも読んでいく気は今はありません。
多少調べると六道輪廻っていう転生の、みんなどこかで聞いたことある話に繋がるからそこから論ずる事は出来るんだけど、これも本当に釈迦が考えたことなのかどうか今の私にはわからないので、私のような教徒でも学者でもない人間が「仏教ではこれについてはこういう考えだそうです」なんて答えることはこんな場ですら、はばかられる。
それはキリスト教やイスラム教など他の宗教についても同じこと。私はどれについてもそこまで深くは学ぶ気ない。そんな時間あったら楽天スーパーセールで買うものリスト作る時間に充てたいし。
そんなわけで、浅く浅~く、仏教の片鱗に触れてみた私の都合のいい答えは、結局答えは自分の見解だけのもの。となりました。
自分の見解というのは現在の状態により変化をしていくものなので答えはいくらでも変わる余地はある。余地はあるがほぼ変わることはない。しかし自分は自分だけのものではなく、他者もある意味自分なのだ、という理解は出来た。
今の私にとって霊はいるはずのないものだということは変わらないのだけど、いると答える人の意見はまた別の自分の意見でもある。
自分が言えない意見を代わりに答えてくれているという意味で。
わかるかなぁ?(^_^;)
こんな文章でこのニュアンスが。
自分にとってはいない、しかし他の自分にとってはいる。自分という自分でないもの。自分はどこにどのようにも生まれうるもの。
釈迦の考えなのかどうかわからないけど、仏教は本来自由な思想を認めるものであるらしい。だから自分の中で解決すればそれでいいし、それを非とする者と争ってはいけないんだと思う。全ての他者の考えがあっての「自分」なのだから。
もちろん考えが合う者同士が結びついて宗派なんてものを作り上げることも本当はいいことなんだろうね。今までは同じ宗教同士で喧嘩して何やってんだと馬鹿にしてたけど。
そんな事を考えていると私の中にはガンダムシリーズの生みの親、富野由悠季さんが語ったニュータイプ論が思い浮かぶ。
ニュータイプは作中では敵の攻撃を予知したり、超能力的な力で自機の力を増幅したりシステムを操ったりする人間の総称で、日本で1番有名なニュータイプは私阿部調べによるとアムロ・レイであり次いでシャア・アズナブルとなるわけなんだけど、富野さんが後に語ったニュータイプ論では、相手の心の奥底までを理解できる人間の事だということ。
だから他人の攻撃を予測したりできる。そしてニュータイプ同士の精神が共鳴するシーンはシリーズ中たくさん見られるんだけど、それはやはり、言葉も無く相手の心が伝わる者同士だからなんでしょうね。
皆がニュータイプとして目覚めれば相手の喜びや悲しみを深く理解出来るようになるから、争いもなくなる。心は全て1つになる。般若心経にある、自分であって自分ではない、ってとこに繋がります。
ガンダムは作中の舞台が戦争だし、全員がニュータイプではない。本人達もニュータイプがどういうものなのか完全に理解していない事も多いし、何しろ戦闘員だしその能力を戦争の道具として利用されてしまうので争いは起きてしまうのだけど、ニュータイプ同士の争いの結末は決まってどちらかの戦死間際に心が伝わりあったりと感動シーンも多くあり。
私も何度感動したことか。ガンダム大好き。最近だとガンダムユニコーンはほんと良かったな~。サントラまで買っちゃったし。
で、ここまでくると悟り=ニュータイプ。つまりガンダムを見ることで悟りのスタート地点までは辿り着ける。なんて言ったら釈迦ファンに怒られそうだけど、私の仏教への解釈は自由なものであっていいってことだから許して欲しい。
他者を理解し、他者になれること。そしてそれも自分であると理解する事が私の悟りのスタート地点。
さて、心の余裕が出来たせいか、頭の中で霊=襲ってくる=怖い=やばい=悪霊退散=安倍晴明呼んでー。ってアホ回路だったんだけど、知恵熱出しながら多少でも仏教を学んでいくうちに少し心が晴れた気がしてきて、最初のイコールから間違いだったのかなと思えました。しかも安倍晴明がもし出てきてくれたとしたらそれも霊じゃんね。怖かったじゃんね。
ということにも気づけた。ついでに調べてみたら安倍晴明でお馴染みの陰陽師ってのは時代のうねりにはじき出され、今では衰退してしまったみたいですね。それも何か悲しい気はする。
見える、と言ってる人から、「先生ももしこの先見える事があったら、優しく話しかけてあげてね」と言われたんだけど、いやもうほんとちょっっっっとだけだけど、その心構えが出来たような気が、、、してる、、、ような気がしてるような気がしてるような気がする。。。。???いやどうだろ、前よりはね。
ただひとつ、この先もし霊が見えた場合にも、私に見えた霊は私にしか見えないものなんじゃないかとは思う。
同じ霊が複数の人間に見えることはほぼないのかなと。体験談でもそんなの聞いたことないし。ほとんどが1人きりでいるときにしか現れないか、もしくは大勢でいてもその場の1人だけが見えてるって場合が普通でしょ?いや普通って何よ。
複数人でいて「お化けだ~!!」なんていって霊に追いかけられたりパニックになるなんてテレビや映画の創作物でしか聞かないもん。
霊はいても、その霊はその霊が見えた者の中にしか存在はしない。だからその霊を見たものが失われれば、また別の見える誰かが現れるまでその霊の存在も消失するものなんだろうと思う。
人間は誰しも語りたがりで聞いて欲しがりが多いという。こんなブログ書いてる私もそこに漏れずそういう人間なのだが、本来それではいけないのかもしれない。
かといって語らない事もいけない。語る事と聞く事そのどちらもあって小さい意味での自分が出来ると同時に、集合体という意味での自分が作られていくのだろう。
どんな意見もいつか自分に為るのかもしれないから選別なく全ての話を聞いた方がいいのだろうけど、私はどうせ聞くなら個としての自分を強く持つ人の話が聞きたい。
他人の意見を色濃くまとった人の話を聞くのなら、その元となる人物と話した方が話が早いからだ。だから現代の日本仏教をすっとばして釈迦の言葉から始めたのは正解だったのかも。釈迦の言葉じゃないかもしれないという結末にはなったけどさ。
しかし釈迦じゃなかろうと、今を生きるお坊さんて人の中には確実に私の心を撃ち抜く言葉を持っている人が何人も何人も何人もいる事もわかった。さすがその道に生きる人は違う。釈迦のいない現代において、私にとっての釈迦はそういった人なんだろう。まぁもちろん仏教だけじゃないから、それが牧師さんでも神父さんでも、宗教人じゃなくても私にとっての存在としては変わらないだろうね。
愛する者がいて愛される者がいる。食べる者がいて食べられる者がいる。他者がいて自分がいて行いは繰り返されていく。そして何がどう起きていっても、この先ずっと先の、全ての生命の終わりの姿は1つ、決まっているのかなーなんて変な空想をする。
和合融一。そんな言葉無いけど、全てのモノが理解し合い心が1つになる。
理想の終わりはそうあるべきなのか。それを見届けるには私自身が意識を保ったまま転生を続けていかないといけないわけだけど、まぁ、それは信じる人に任せるとして、私は私で今の現実主義的な考えを持って進めばいい。
霊は私にはいないもの、しかしいるという者の中には必ずいるもの。そのどちらも間違っているはずがない当然の理だったわけだ。
釈迦は、いや釈迦の言葉を解釈した誰かの言葉に、
「悩んでもわからない事に心を惑わすな、そんな事してるなら今目の前で起きている他の問題をクリアして前へ進め」的な言葉があるのだけど、まさに私のしてた事はそれ。
だけどいい勉強になったよ。仏教ありがとう。
ほんと、お経なんてのは「悪霊退散!!」ていうセリフまでの前準備なのかと思ってたくらい知識不足だったのに全然そんなんじゃなかったんですね。
私のように無知な人間が多すぎるのだが、しかしそれもしょうがない。
色々なとこから調べてたからどこの誰の意見だったか忘れてしまって申し訳ないのですが、現代の日本仏教の問題点の1つとして1番重要な仏の教えを民衆にわかるように広く伝えていない事だとか。お経がわかりやすく広まるような努力をしていないってことでしょうね。それと金儲け主義に走り過ぎ。
しかしまぁ、宗派も解釈も色とりどり過ぎて、私のようにどこに本物があるかわからないからこそわかりたくないって気持ちもあるしどーにもならない問題でしょうね。だがこれも全て大きな流れの一環なのでしょう。お釈迦様の慧眼がどこまでのものだったのか、考えると想いは尽きないですね。
さ、長々とこんなことしてないで楽天スーパーセール参加しなきゃ。
って、リストまで作ったのにいざ始まるとやっぱこれいらないか、って思いとどまりほとんど買わない事多いです。だからポイント何十倍!!とかCMやってるけどあれぜーんぜんいかないですよね。買い回りとかいうほとんどの人が出来ないことしないといけなくて。昔は条件無しにポイント10倍ついてくること多かったのに、目眩ましばっかり多くなって、嫌な商売ですね。
しかし、それもまた自分。楽天=自分。
って理解しなきゃなのかしら?
なーんて、売り手の心を理解するってことをしないとなんですよね。向こうは買い手の心理を理解する努力をしてるんですから。それが出来た時、きっと気持ちよくなんでも売り買い出来るのかも。
私のニュータイプへの道はまだまだ遠いな。