その後かの美人さんが旅立った件は連日いろいろなところで取り上げられていた。
よくインターネットを閲覧する環境にいるが、その話題については全て読み飛ばしていた。
その中で、興味をもちじっくり読んだのは、「在宅医療の現実」について書かれた記事だ。
これまで出産以外入院したことがなかった。昨年の手術で初めて手術のための入院を体験した。医療施設やスタッフにはほぼ不満は感じなかった。
が、しかし、手術して検査結果がわかるまで
もしかして手の施しようがなくできることは完治ではなく延命になる可能性のある病気
であると自覚したとき、
自分が最後過ごす場所がここだと言うのは辛いな
と感じた。
だが、下息子当時小4は、その時もし病気が今現在より重い結果だった場合、自宅にその状態の母親がいるのをすぐには受け止められなかっただろうし、私自身もそんな下息子のそばで心理的負担なく万全な状態で重い症状のための治療に臨めなかったと思う。
私はかの美人さんのようには頑張れない…
仮に私の状態がすでに健康な状態にするのは難しく、これ以上悪い細胞が増えないようにする治療や残された時間、できるだけ苦痛を取り除く状況になったとき、あからさまに
終末医療
や、もう手の施しようがないとも取れる
緩和医療
という言葉は辛すぎるなと思う。
以前のような元気な体に戻れないのも、残された時間が短いのも理性では受け取れる。
それは仕方ないことだし、そういう立場に置かれれば、それなりの生き方があると思う。
病院では手術を受けられるし、経過観察の必要な難しい薬物治療を受けられる。
抗がん剤を使ってより健康な状態に戻れるのなら、入院して治療するのは有意義だと思う。
でも、病状により自分が入院した環境が自分の生きる空間の全てだとしたらどうだろう?
今回、実は思わぬところに転移していて、あとはこれ以上にガン細胞を増やさない治療とゆくゆくは増えていくガン細胞の痛みを取る治療仕方なくなることになったとした場合、それでなくても不安定な精神状態を抱えて落ち着いて健常な人より短くなった時間を有意義に平穏にかつ有意義に過ごせる場所が思い浮かばず、自分の知る限りには存在しないのではないかと思えた。
そう思えるのはまだまだ元気な証拠だと思うけど、私が手術を受けた病院の入院施設は、もう終わりがすぐそこに見えてる状況で過ごすのはたまらないなと感じた。
どうせそれ以上の治療法がないのなら、治療をすれば治る人にベッドを譲りたい。
ホスピス?
これもまだまだ元気な傲慢なのかも知れないし、疼痛ケアなどで医療の専門家のそばで過ごさなければならないのかもしれなけど、隔離されたようで気分が悪い。
現状では家族に人的経済的負担をかけずに済むのなら、やはり病院ではなく家で過ごせるのがいいのかなと感じる。
誰もが負担なく、緊急時には必ず医療機関に搬送してもらえるような体制で在宅医療が受けられないものだろうか?
そのために何が必要だろう?
自宅でも使用可能な医療機器と医療機器を取り扱える人?
もし私が手術する前の健康に限りなく近づけて、可能であれば看護師の資格を取りたいなと思ってみたり、みなかったり。
学生の頃は先生とか看護師とか人を相手にする仕事は自分には無理だと思ったが、社会にでて長く働き子育てをしてきた今なら、人を相手にするのは大丈夫だと思える。
今のところは体が続く限り、今の仕事を全うしたいと思っているが。