410光年の彼方-20090124 Movie

初日舞台挨拶の記事(シネマカフェネット)

2009年、最初の映画鑑賞です。
この映画は"容疑者家族の保護"をテーマにした社会派ドラマ。

犯罪」が起きたとき、どうしても被害者へは同情し、
加害者側へは非難の目を向けてしまいます。
そして、残された両者の家族へは...

こういった深層心理をつくような内容はいつまでも心に残ります。
観賞しているときは、ほとんど他人事のような気持ちです。
でも、いつ自分が当事者となるかは誰にもわかりません。
それが被害者側なのか、加害者側なのか。
昨今では両者が同じ家族という事件もあります。

ネット社会の誹謗中傷の酷さは、やり過ぎのようにも思えますが
現実ではありえないとも断言しきれない世の中になりつつあるのでは?
(正直インターネットというものが恐くなります)

さまざまな角度から描かれている"悪意"
当事者となりえる"恐怖"
救いようのない悲しみの映画といってもいいくらいです。

今回の映画は君塚監督が「踊る~」での取材の中で構想が
生まれたらしく、半分ドキュメント、半分エンターテイメント
のような感じになってます。

ちょっと驚いた点でいえば(ネタバレ?)
 物語の序盤で加害者宅に役所や教育委員会の人がきて
  ・離婚と再婚の手続き(夫の姓→妻の姓に変更)
  ・中学の就学義務免除
 といった事務処理が簡潔に執り行われる。
 当事者たちは言われるままに紙にサインをするだけで
 すべて"特例"扱いで受理される。
 加害者は未成年だが、 実名報道がされる可能性を考えて
 家族たちの苗字を強制的に変更してしまう。
 妹も母親の姓になり、息子のみが旧姓のまま。


一応拒否することもできるのでしょうが...
突然おとずれた出来事(事件)を、受け止めることができないまま
ものすごい勢いでとりまく環境は激変していくのです。

残された家族という意味では加害者も被害者も
もしかすると同じ重さの痛みをかかえるのかもしれません。
殺人という「犯罪」の場合においては
罪を償えば加害者はいずれ家族のもとに戻ってくるかもしれません。
けれども被害者はもう二度と家族のもとへは帰れないのです。
残された家族におとずれる痛みの重さは同じでも
生死という境界線があることを度外視することはできません。

殺生に関わる事件が起きるたびに思い出す言葉があります。
 君は他の人よりも少しだけ不幸かもしれない。
 でも、他の人の命を奪っていいほどの不幸は存在しない。
                - 「家栽の人」 桑田判事 -


憎しみによる殺人でも、無差別殺人でも、すべてこの言葉につきます。

舞台挨拶のときに佐藤浩市が言っていた言葉がとても印象的でした。
 僕自身も家族を守る立場。
 『守る』がいつのまにか
 『守ってやっている』 になると
 とても怖い。
 守るべき者の立場や心情を常に考えないといけない。


そしてすべての人物、観客の心を癒すかのように流れる主題歌の
ボーイ・ソプラノの歌声に救いの光を感じるのです。


以前観た『手紙』という映画もそうでした。
こちらの音楽は小田和正の「言葉にできない」。
 『手紙』 2006年作品
 東野圭吾のロングセラー小説を映画化した社会派人間ドラマ。
 殺人という大罪を犯した兄のせいで、人生を狂わされる弟。
 やがて弟は家族をもつが、それでもなお続く受難の日々。


音楽は映像では描ききれない壮大な力があります。
そして映画と結びついて、より深く心に浸透してきます。


 誰を守りたいのか
 誰に守ってほしいのか
 それが自分にとって誰なのか...

 きっと
 それが誰であろうとも
 大切なヒトであることに
 変わりはしない

 物事に意味をもたせているのは ヒトであり
 受け取り方がそれぞれ違えば 意味も違う
 受け取り方が変われば 意味も変わる
 変えることも 変わることも
 ココロひとつ



。:’* + ☆°・ ‥.゜★。°: ゜・ 。
As hour by hour and day by day
Your love lightens up the sky
As it shines across the night
いつもあなたの愛が
夜空を照らしてくれた

。:’* + ☆°・ ‥.゜★。°: ゜・ 。