原爆投下の翌日から、広島市似島の検疫所の戦いが始まったことはあまり知られていない!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

広島港の南、約3kmに周囲が十数キロの

 

小さな島似島が浮かんでいます。

 

 

 

 

 

 

この島がクローズアップされたのは、明治時代に遡ります。

 

1894年日清戦争が勃発し、

 

戦地ではコレラが流行したんです。

 

部隊が帰国する際大陸の伝染病を国内で

 

拡散させないために、伝染病の検疫・

 

消毒を行う必要に迫られ

 

1895年4月、似島に検疫所が設立されました。

 

 

 

 

 

 

日露戦争のロシア兵捕虜、

 

第一次大戦時のドイツ兵捕虜の収容所を経て

 

大東亜戦では太平洋各地からの傷病兵を

 

受け入れていましたが、

 

敵の侵攻により玉砕地が多くなり、帰還兵は減少します。

 

 

 

1945年8月6日朝、広島に原子爆弾が投下され

 

多くの市民・将兵が死亡しました。

 

しかし原爆投下による爆風と熱線の元でも

 

多くの生存者がいて、その被爆者は

 

ここ似島に次から次へと運ばれてきました。

 

第二検疫所はあっという間に野戦病院へと化していきます。

 

 

 

8月7日に偵察用のB29が撮影した広島市と似島

 

運ばれた被爆者

 

 

 

7日夜には薬は底をつき、収容所はパンク状態です。

 

ここに運ばれた負傷者は8月末には一万人に達したそうです。

 

しかし重度のやけどや裂傷などならまだ何とかなったかも

 

知れませんが、ほとんどの患者は放射能汚染されてることなど

 

知る由もありません。

 

 

せっかく運ばれてきた被爆者は次々と死亡していき、

 

当初はもともと死亡した軍馬を焼却処分してた

 

焼却所で火葬してたけどそれも追いつかず、

 

遺体を防空壕の中に安置するか

 

(安置と言えば聞こえがいいが、ギュウギュウ詰めに押し込む)

 

大きな穴を掘ってそこに埋葬した。

 

 

 

千人塚

 

陸軍運輸部馬匹検疫所焼却炉の遺構碑

 

 

 

被爆者たちは似島がオーバーフローしたため

 

途中から五日市町・廿日市町・宮島町・大竹町

 

などに搬送されることになります。

 

 

25日には500人の負傷者が似島に収容されていましたが

 

末までに全てが他へ転送され、救護所としての任務を終えます。

 

 

 

原爆被爆者診療の地の碑

 

 

 

戦後は引揚者や復員兵を受け入れ検疫を実施。

 

1946年9月には第一検疫所敷地内に

 

広島県戦災児教育所似島学園が開設され、

 

戦災孤児を収容します。

 

 

 

 

広島市は1947年以降、数度にわたり島内で遺骨収集を実施

 

大量発掘した場所には花が植えられています

 

 

 

このように、被爆翌日から似島検疫所では

 

壮絶な戦いが繰り広げられました。

 

 

 

 

 

 

しかし市内の平和公園・資料館や

 

原爆ドームを訪れる観光客は、

 

その足で似島まで足を延ばすことはありません。

 

 

こんなに近いのにね…。

 

 

 

 

 

 

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