5月29日~6月2日に
首里の司令部を撤退した第32軍は
島尻地区の摩文仁に司令部を構えました。
天候不良が続き敵の機動力が鈍ってる間の撤退でした。
32軍は島尻南部の
真栄里ー国吉ー大里―与座岳ー
八重瀬岳ー安里ー玻名城ー具志頭
に八重瀬岳より西に第24師団、
東に独混44旅団を配置し防衛ラインを布陣します。
豊見城~南風原方面にかけては、
軍主力の撤退を援護するための
残地部隊のみで構成されてたので、
敵の侵攻を妨げるほどの兵力はなく、
これまでの戦いに比べれば
敵はスムーズに南下できたようです。
この防衛ラインに最初に仕掛けてきたのは
八重瀬岳北部に進出してきた第381連隊。
敵は梅雨により自軍の機動力を持ってしても
進撃に後れを生じてることについて
日本軍は撤退に際し重砲を共に
運んでいないと推測しています。
元からこの地区に配置してる砲のみで、
北からは補充出来ていないと見ています。
このラインでの我軍の再編ですが、
それぞれ嘉数・シュガーローフ・
首里・小禄などで激戦を経験しており
部隊の半数以上に消耗してる部隊が大半です。
八重瀬岳には小禄で後退命令のしんがりを務めた
海軍丸山部隊・海軍勝田部隊が布陣しました。
その後方には独歩第23大隊第5中隊。
(それぞれ現、陸上自衛隊八重瀬分屯地周辺)
敵は八重瀬岳を抑えれば我軍の観測地点を失い、
数少ない砲撃を無力化でき、残るは近接支援砲のみと
分析したため、八重瀬岳占領を急ぎました。
我軍にとってはこの防衛ラインを突破されると
司令部のある摩文仁が射程圏内に入るため、
死守が必達課題となります。
このラインに最初に接触してきたのは6月5日具志頭方面。
翌日には世名城が攻撃を受けます。
火炎放射戦車が火を噴きだします。
富盛の石彫大獅子で八重瀬岳を偵察してる
米兵が撮られたのはこの頃だと思われます。
何かの本でこの写真の解説に、
この弾痕は機銃掃射とありました。
当時制空権は米軍が握っており、
6月に島尻地区上空を
飛んだ日本機はありません。
となるとこの弾痕は米軍機のモノになります。
F6FやP51はブローニングM2
重機関銃を4~6挺搭載しており
弾痕はあのような短い間隔で
一列にはつきにくいものです。
だいたい散らばりますね。
それと被弾した表面は衝撃ではぎ取られ
クレーターのようになります。
あのようなきれいな穴にはなりにくいですね。
私の推測ですが、
勢理城に平賀隊もしくは海軍勝田大隊の一部が
敵状観察のため布陣してたところ、敵の偵察隊により
銃撃を受け被弾したのではないでしょうか。
もしそうだとすると銃撃を受けたのは8日前後となりますね。
ブローニングM1918A2自動小銃とちゃうやろか
この島尻南部防衛ラインには
一歩前に前進陣地が設けられているのですが
6月5日、具志頭の前進陣地が
まず最初に敵と接触します。
泥岩が主成分の島尻層群が分布してるため
ガマ(自然壕)を利用して布陣しています。
敵も上陸以来これまで地下陣地に潜む
日本軍には悩まされてきたので、
西部戦線では糸満ー照屋を突破した、
第7海兵連隊が国吉台地に近づきつつあります。
次いで中央部の与座岳へも敵の大隊が追いつき、
一気に防衛ラインへと攻め込もうと、
砲撃と多くの戦車を先頭に攻め込んできました。
同日昼には右翼の要、91高地が墜ちてしまいます。
しかし敵の兵力とは比較にはならないけど
まだ砲陣地は健在です。
敵に一泡吹かせてやりましょう。
西部戦線においては国吉台地が戦闘の要となります。
地面はぬかるみ戦車が通れる筋は2本しかありません。
この通りにおいていかに敵戦車を撃退するかが
ここの局面において重要な課題と言えるでしょう。
照屋北側高地には、島尻地区で戦闘の際の
食糧・弾薬・医薬品を備蓄する場所に
指定されていました。
前線陣地に敵が迫ってきた時、
これらの集積物は避難できたのでしょうか?
そんな余裕はなかったかもしれませんね。
せめて医薬品だけでも移動できておれば
学徒看護隊も少しは負担が軽くなったのにね。
6月11日以降、沖縄戦にとって
いよいよ大詰めとなって来るのです。