サイパン島の戦車第九連隊は、現在メッチャ苦しい戦いを強いられてるで!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1944年6月、

 
サイパン島上陸作戦を控えた敵は
 
11日に1000機以上の航空兵力を
 
もって同島を空襲しました。
 
 
 
 
 
 
13日には敵艦隊が接近し、
 
艦砲を雨あられのごとく同島に降り注ぎ
 
我が方の基地航空隊はこれにより
 
致命的なダメージを受けてしまいました。
 
 
 
 
 
 
また太平洋各地の各守備隊が
 
水際作戦を取ったおかげで
 
空爆・艦砲によりことごとく
 
壊滅したのと同様、ここサイパンでも
 
これらの攻撃により、
 
大半のトーチカ・火砲が破壊されています。
 
 
同15日7時15分、敵はLVT数十輌で
 
チャラン・カノア付近に上陸しますが、
 
かろうじて生き残った内陸部の
 
九六式十五糎榴弾砲が火を噴き
 
LVTを撃破していきます。
 
 
 
 
靖国神社遊就館の九六式十五糎榴弾砲
 
沖縄西原町の九六式十五糎榴弾砲
 
ガダルカナル島の九六式十五糎榴弾砲
 
 
 
艦砲射撃を行った艦船の中に、
 
あの真珠湾攻撃で大破着底した
 
戦艦テネシーの姿もありました。
 
 
 
 
 
 
「こないだの仕返しや!思い知れ~!」と
 
言わんばかりにぶっ放してましたが、
 
海軍の沿岸砲に手痛い一発をもらい、
 
すごすごと退散していきよった。
 
 
 
 
 
 
しかし圧倒的火力で上陸を進める敵は
 
サイパン島西部オレアイ海岸・
 
チャランカノア海岸に上陸。
 
わずか一日で約8000名を上げ、
 
橋頭堡を確立してしまいます。
 
 
 
 
 
 
友軍は予定通りに水際撃滅を展開し、
 
一部は敵を海に追い落とす勢いで攻撃するも、
 
艦砲等により著しく消耗。
 
戦車第九連隊では第四中隊などが全滅。
 
 
 
 
 
 
 
吉村中隊長(大尉)指揮する
 
第四中隊の中の1輌と思われるのが、
 
敵が上がったオレアイ海岸に残されています。
 
ただ、第1撃は九五式軽戦車を
 
主とする攻撃だったので、
 
この車輌がその中に含まれていたのか、
 
13時頃から始まった第四中隊の3輌、
 
あるいは同日の夜襲に参加した車輌かは不明。
 
 
 
 
 
 
オレアイ海岸の今は、
 
まさに「つはものどもが夢のあと」のように、
 
静かに静かに時間が過ぎています。
 
 
 
 
 
 
でもここは日本軍のおびただしい血で、
 
海面が真っ赤に染まった所でもあります。
 
 
 
 
 
 
16日夜反撃を開始。
 
一時米軍指揮所付近まで進出するが、
 
敵のバズーカ砲、75㎜対戦車砲
 
により大部分の戦車を失い、
 
連隊長も戦死し連隊は壊滅的状況に陥ります。
 
 
17日の総反撃に戦車第九連隊としては
 
残る第三、第五中隊を投入することになります。

この攻撃に際し、
 
戦車に歩兵を同乗させ突入すると言う
 
前例の無い攻撃案が採用されたが、
 
当初の攻撃開始時刻17時の決行が歩兵隊の
 
集合の遅れによって8時間も遅れ、
 
翌日になってしまい敵に
 
迎撃準備を十分与えてしまいます。
 
下2輌はその時の第三、
 
第五中隊傘下の車輌だそうですが、
 
残存する第四中隊一部は、
 
オレアイ無線局付近まで進出したので、
 
先の初旬攻撃の際、かろうじて生き残った
 
第四中隊所属とも考えられますね。
 
 
 
 
 
 
 
靖国神社遊就館に展示してある
 
チハも戦車第九連隊の1輌です。
 
説明文にはこうあります。
 
 
この戦車は、大東亜戦争における
戦車第9連隊第5中隊所属の九七式中戦車である。
同連隊は、昭和19年(1944)4月、
満洲よりサイパン島に移駐し、
米軍の上陸に当たっては、諸兵団の先頭に立ち、
数倍する優勢な敵の猛攻を迎え撃って敢闘したが、
同年7月7日全兵団と共に玉砕した。
 
同連隊所属のある生存者が同島海岸砂中に埋没していたこの戦車を、
サイパン島戦歿者並に全戦車兵団戦歿者の慰霊碑の象徴にしようと、
現地の有力者ハーマン・R・ゲレロ氏を始め、島民の協力を得て発掘し、
祖国に還送。
多くの戦友の奉仕により、昭和50年8月12日靖国神社に奉納、
境内に設置以来、戦車保存会々員の奉仕により、保修整備されてきた。
 
然るに、会員の高齢化に伴う今後の保守の断絶を慮り、
靖国神社当局と謀り、同63年7月、大大的に整備工事を行い、
同年12月、遊就館ホールに搬入、
末永く保存されるよう対処したものである。

昭和63年12月11日
靖国戦車保存会
 
 
 
 
 
 
静岡県富士宮市の若獅子神社。
 
ここにも遊就館に展示してあるチハと
 
同時期に帰国したのが展示してあります。
 
 
 
 
 
 
この車体には砲塔下部をはじめ、
 
左側面にも無数の弾痕の跡があります。
 
硬い鉄にめり込んで出来た跡は、
 
戦闘の激しさや厳しさを物語ってるようですね。
 
 
 
炎上する戦車第九連隊第四中隊所属の新砲塔
 
 
 
大陸等の広大な大地での
 
戦車戦闘では横列体系ができますが、
 
狭い島ではせいぜい二列横隊が限度。
 
そこへきて、連絡網の遮断から
 
攻撃時間の大幅な遅れに伴い、
 
敵はその間に戦車・榴弾・対戦車砲等を揚陸。
 
迎撃態勢を整えてしまった。
 
 
九七式中戦車が開発されたころ、
 
当面の敵である中国国民党軍の装備に
 
対戦車戦闘に適する物が少なかったこともあり、
 
開戦当初のマレー作戦に関しても
 
同様であるがため、
 
歩兵直攻支援の任が最適の車両でした。
 
 
対戦車戦ともなると、
 
M3軽戦車と渡り合うのがせいぜいで、
 
75mm砲を装備したM4中戦車には
 
かなりの苦戦を強いられたようです。
 
 
 
 
 
 
靖国神社遊就館のチハは、
 
サイパン戦の前に撮影された画像、
 
戦闘直後米軍が撮影した画像、
 
タナバク海岸から掘り出した車体の弾痕から、
 
第五中隊・柴田勝文大尉が乗車した
 
車両「みたて」と判明しています。
 
 
 
 
 
 
吉村大尉が乗る第四中隊長車「どんりう」。
 
47mm砲搭載型で
 
新砲塔チハと呼ばれたもの。
 
第四中隊は15日、敵上陸の方が
 
入るやいなやチャランカノア方面に出撃。
 
一時は敵を海岸線まで押し戻したが、
 
艦砲等の反撃に合い後退。
 
島内最大の淡水湖ススペ湖付近で力尽きる。
 
(後方にススペ湖の一部が見える)
 
 
 
 
 
 
新砲塔チハは、対戦車戦闘力向上を示唆し、
 
九七式五糎七戦車砲を
 
一式四十七粍戦車砲に換装した改良型。
 
射距離1000m以内に接近すれば
 
M3やM4の装甲を貫通できた。
 
 
 
 
 
 
兵力の差が歴然とした中、
 
また真昼のように照らし続ける照明弾の中、
 
第九連隊は本当によく戦われました。
 
彼らの功績は、きっと今の平和に
 
つながってるものと思います。
 
彼らの奮闘なくば、B29の本土への
 
空爆はもっと早くから開始され、
 
もっと多くの国民が
 
焼け死んだかもしれないですね。
 
 
 
 
 
 
6月17日早朝の総攻撃は、
 
次々と陸揚げされた重火器等により
 
砲撃を加えられ失敗に終わりました。
 
同日大本営陸軍部は
 
サイパン島に増援派遣を決定しますが、
 
翌日にはアスリート飛行場を
 
占領され、その周囲の施設や
 
空爆を逃れた航空機などが
 
ほぼ無傷のまま敵の手に落ちてしまいます。
 
 
また6月19日~20日のマリアナ沖海戦では
 
空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫し
 
増援派遣は見送られ、
 
これ以降守備隊は苦境に立たされていきます。
 
 
 
 
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