硫黄島千鳥飛行場は海軍の守備範囲やのに、1945年2月20日には速攻で敵に占領されてもた!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1944年半ばにはマリアナ諸島を抑えた敵は
 
速攻で飛行場整備を行い、11月24日
 
B29による東京初空襲が実行されました。
 
 
 
 
 
 
サイパン奪回を断念した日本軍は、
 
硫黄島を中継基地として、
 
サイパン航空基地への強襲を行います。
 
 
 
 
 
 
日本軍機の爆撃が何度かあり、
 
その都度B29が被害にあってたので
 
敵は「こりゃマズイ!」と思ったんでしょう。
 
当時マッカーサーはフィリピンを完全制圧した後、
 
台湾への侵攻を主張していましたが
 
 硫黄島攻略が決定しました。
 
 
 
 
1945年2月19日に硫黄島に上陸した敵は、
 
千鳥飛行場へ向かう部隊と、
 
摺鉢山へ向かう部隊とに分かれます。
 
 
栗林中将はそれまで南方各地で行われた
 
“水際作戦”をやめ、
 
内陸へおびき寄せた後に
 
攻撃を加える作戦に出ました。
 
 
当然砲撃も敵上陸の際には行わず、
 
温存させる方針でしたが
 
摺鉢山の海軍の砲陣地はあろうことか
 
上陸用舟艇を撃ってしまいます。
 
何隻かがこの砲撃で被害を受けましたが、
 
敵にその位置を知られ、
 
艦砲によって沈黙してしまいます。
 
これは摺鉢山に向かってきた敵を
 
攻撃するのに非常に痛手となりました。
 
 

 

 
 
 
栗林閣下は硫黄島攻防戦において
 
ペリリュー島の中川州男大佐の
 
地下陣地を活用した案を採用し
 
長期戦を覚悟していました。
 
 
一方千鳥飛行場確保に執着する
 
海軍は一歩も譲らず、
 
飛行場陣地構築を開始しました。
 
しかしこの陣地は敵の空爆・艦砲により
 
大半が破壊されてしまいます。
 
 
 
一式陸攻を利用したトーチカ
 
空爆を受ける千鳥飛行場
 
 
 
海軍の責任者は
 
第27航空戦隊司令官市丸利之助少将。
 
彼は柔軟な発想の持ち主であるのに
 
飛行場に固執したのは、おそらく
 
大本営海軍部に押し切られたからでしょう。
 
 
 
 
 
 
市丸少将は遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルト
 
に宛てた『ルーズベルトニ与フル書』を残したことで有名。
 
 
どうやら海軍はここにきてもまだ
 
サイパンでの戦いにおいて
 
水際作戦を取ったおかげで
 
敵上陸からわずか3日間で約3万人を
 
失ったことから何も学んでないようです。
 
 
 
2月19日早朝、敵の艦砲と空爆が始まりました
 
9時頃第1波が上陸開始
 
 
 
上陸した第28海兵連隊は摺鉢山へ。
 
第27海兵連隊は千鳥飛行場を迂回し
 
側面からの攻撃に従事。
 
第23海兵隊は千鳥飛行場へ。
 
第25海兵隊は元山飛行場へ
 
それぞれ進軍を開始。
 
 
 
 
 
 
その時元山付近に隠匿してた砲兵隊が
 
一斉に火を噴きます。
 
先に述べた摺鉢山の海軍砲が健在ならば
 
挟み撃ちに出来たものを…。
 
 
栗林閣下はバンザイ突撃を禁じ
 
遊撃戦の展開を命令してたので
 
その夜少数で敵陣地に侵入し
 
集積物資の破壊等に貢献しています。
 
 
しかし態勢を整えた敵は翌日には
 
千鳥飛行場に進撃。
 
 

 

 
 
 
小笠原兵団約7300名の内1/3が海軍部隊で
 
千鳥飛行場にあって早々に壊滅してしまいました。
 
 
 
 
 
 
飛行場付近を占領されたことにより
 
摺鉢山との連絡網が遮断され
 
第28海兵連隊の猛攻を受けだしました。
 
 
 
 
 
 
敵が摺鉢山に手こずってる21日、
 
彗星12・天山8、直掩零戦12の計32機からなる
 
第二御盾隊の特攻攻撃が始まります。
 
 
 
 
 
 
事前に陸攻隊がチャフの散布に成功。
 
敵レーダーをかく乱したお蔭で
 
無事に敵艦隊に接近できました。
 
 
 
 
硫黄島東方海上にあって、特攻機の命中により
爆発を起こしたビスマーク・シー。後に沈没
 
4機もの特攻機が命中したにもかかわらず
沈まなかったサラトガ
 
ルンガ・ポイントは3機の天山に襲撃されたが、
2機を撃墜し1機は艦橋後部に接触する程度で助かっている
 
 
 
硫黄島守備隊からもこの攻撃が確認でき、
 
士気が大いに上がったそうです。
 
しかし残念ながら、摺鉢山では地下陣地が
 
しらみつぶしに攻撃され、死闘ついに報われず
 
23日午前10時すぎに
 
山頂に星条旗が立てられてしまうんです。
 

 

 

 
 
 
摺鉢山を攻略した敵は3個師団をもって北部に向かい
 
栗林中将が戦死し、3月26日に組織的抵抗が終了するまで、
 
いや、それ以降も残された兵たちは我々の想像を超えた
 
苦闘を続けるのでした。
 
 
 
栗林中将が残存兵約200名を引き連れ
 
最後の突撃に向かう数時間前、
 
1機の陸攻が硫黄島上空に姿を現します。
 
25日夕刻に木更津を飛び立った8機の内の1機です。
 
対空砲火の弾幕をくぐりぬけ、硫黄島上空に達し
 
60kg陸攻爆弾12発を投下し無事に帰還したのは
 
わずか1機だったそうです。
 
 
 
 
 
 
敵に与えた損害は極めて軽微やったけど、
 
友軍に与えた士気は極めて多大だったと言えます。
 
 
 
 
 
 
硫黄島周辺海域でも多くの
 
輸送船が沈められました。
 
これらが無事に上陸をはたしていたら、
 
戦局は好転したでしょうか。
 
仮に兵力が増強されたとしても、
 
食料・水の補充なくば
 
人口密度が高くなるほど、
 
戦闘以前に食糧難が訪れます。
 
制空権・制海権を失ったこの頃には、
 
餓島の時のような鼠輸送も不可能でした。
 
 
 
 
 
 
硫黄島方面にて活動中の伊368・伊370・呂43は
 
敵哨戒機等に発見され、あえなく撃沈されました。
 
 
敵の電波兵器の進歩は目まぐるしく、
 
もはや空も海も安全ではなくなりました。
 
どうやら敵に近づくのは至難の業のようです。
 
 
 
 
 
 
日本の戦死者は約2万1900人。
 
配備総数の95%に当たります。
 
 
 
 
 
 
食なく、水なく、武器なく、
 
増援もないまま最後まで戦われました。
 
 
 
未だ約1万1千名のご遺骨が
 
硫黄島の土の中に眠っています。
 
 
 
一日も早く、一人でも多く
 
祖国にご帰還されることを
 
心から願ってやみません。
 
 
 
1968年6月26日、
 
硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が返還されました。
 
米軍が撤退後、 硫黄島は海上自衛隊の管理に置かれ、
 
摺鉢山に再び日章旗が翻りました。
 
 
英霊の皆さんはこの光景を見て、
 
「おぉ、友軍が摺鉢山を奪還したゾ!!」
 
と喜んでくれたでしょうか。
 
 
 
 
 
 
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