1944年9月25日、疎開船武洲丸は対馬丸の悲劇を教訓に出来ず、敵潜の雷撃で沈んでしもた!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

対馬丸は、1944年8月22日
 
政府命令による学童疎開輸送中に
 
敵潜ボーフィンの雷撃により
 
疎開児童682名を含む
 
1529名の犠牲者を出し沈みました。
 
 
 
対馬丸
 
 
 
戦時徴用船武洲丸は、
 
1944年9月8日にタカ808船団として
 
台湾の基隆港から那覇港に向け出港。
 
船団が石垣島南西沖に差し掛かった時
 
敵潜の雷撃を受け、日安丸・
 
日満丸・神天丸・昭慶丸の4隻が
 
犠牲となるも、武洲丸は
 
無事に那覇に到着しました。
 
 
 
武洲丸
 
 
 
復路は臨時便のナカ502船団として、
 
先に名瀬に到着してる相洲丸と共に
 
奄美大島・徳之島から本土に
 
疎開する民間人ら200人以上を乗せ
 
第89号駆潜特務艇・第200号駆潜特務艇
 
の護衛の元、24日朝名瀬を出港しました。

 

 

 

駆潜特務艇

 
 
 
武洲丸・相洲丸・駆潜特務艇は
 
最大で11ノットしか出せないので
 
船団速度を7.5ノットに保ちながら
 
北上してます。
 
 
25日21時ころ、トカラ列島
 
諏訪之瀬島北西付近に差し掛かった時、
 
同海域を哨戒中の敵潜バーベルに発見させます。
 
 
 
 
 
 
当時の天候は雷雨で
 
対潜哨戒も思うようにできず
 
運を天に任せる心境だったようです。
 

しかし敵潜には

 
高性能レーダーが搭載されており
 
船団の行動は筒抜けです。
 
 
 
 
 
 
武洲丸にバーベルが放った
 
魚雷が命中し、急速に沈みました。
 
相洲丸は爆雷で反撃し離脱に成功。
 
武洲丸乗船の疎開者148人・
 
便乗軍関係者18人・軍属船員11人・
 
海軍警戒隊員5人の計182人が死亡。
 
 
 
対馬丸沈没事件の際、
 
ナモ103船団護衛には
 
駆逐艦蓮・栂・砲艦宇治が
 
護衛についてましたが、
 
船団を護り切れませんでした。
 
 
 
砲艦宇治
 
 
 
対馬丸の悲劇を検証し、
 
その対策を検討していれば
 
武洲丸の沈没は回避できていたかもしれません。
 
あの時緘口令を布き、問題視しなかったことが
 
今回の武洲丸の沈没に繋がったと言わざるをえない。
 
 
また、
 
対潜哨戒に不慣れな責任者が乗船し、
 
一刻も早くこの危険な海域から離脱しようと
 
時間のかかる乙字航行はせずに、ナモ103船団のように
 
最大船速で航行しようとして、攻撃されたようです。
 
ベテランが乗り込んだ場合、対潜哨戒を厳としたのが
 
無事に通り抜けることが出来た要因だと思われます。
 
 
 
 
 
 
対馬丸の悲劇は、
 
1950年に遺族会が発足し
 
事件を伝え始めましたが、
 
武洲丸の悲劇が世に出たのは
 
それからずっと後の
 
1978年のことでした。
 
 
現在は、1944年6月29日に徳之島近海で
 
敵潜の雷撃により沈没した富山丸とともに
 
徳之島亀徳に慰霊塔が建立され
 
静かに海を見つめています。
 

 

 

 
富山丸
 
古仁屋にある供養塔
 
なごみの岬公園
 
 
 
毎年9月23日に、なごみの岬公園で
 
武洲丸と平和を考える会と遺族会により
 
慰霊祭が挙行されていましたが
 
遺族会の高齢化に伴い
 
現在は“平和の夕べ”として
 
武洲丸と平和を考える会が
 
開催してるそうです。

 

 
残念ながら今までここを訪れる
 
機会に恵まれませんでした。
 
出来ることなら、まだ動けるうちに
 
一度伺いたいとは願ってるのですが…。
 
 
 
 
 
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