過去に訪れたお城を少しだけ見てみよう!兵庫編 其之弐 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

⑥明石城

 
 
 
 

●1970年代より数回訪問
 

所在地は兵庫県明石市明石公園。
 
別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、
 
錦江城(きんこうじょう)
 

1617年小笠原忠真が
 
信州松本城主より明石藩主となり、
 
同年に2代将軍徳川秀忠より
 
築城命令された。
 
本丸に天守閣は造られず、
 
城の四隅に三重の櫓が置かれた。
 

現在は明石公園として整備され、
 
近隣には高校野球兵庫県予選で
 
使用される明石球場や、
 
東経135度日本標準時子午線の
 
真上に建つ天文学をテーマとする
 
明石市立天文科学館などがあり、
 
またたこ焼きとは一風変わった、
 
ダシにつけて食する
 
「明石焼き(玉子焼き)」の店が多数ある。

その明石焼きだが、
 
播磨地方ではソースを塗ってから
 
ダシにつけて食べるのだが、
 
明石方面ではソースは塗らないらしい。
 
どちらが美味いかは個人の判断のようです。
 
 
 
 
 
 
 
⑦龍野城
 
 
 
 

●1970年代より2~3回訪問
 

龍野城は関ヶ原の戦いより
 
さかのぼる事約100年、
 
播磨地方の豪族赤松村秀が
 
鶏籠山に築いたのが始まりと
 
されている。
 

江戸時代初頭は姫路藩池田氏の
 
領有する地であったが、
 
1617年池田利隆没後、
 
嗣子の幸隆(後の光政)は幼少のため
 
西国へにらみを効かすには
 
不十分と鳥取藩に転封となった。
 
これにより播磨の地は数藩に
 
分割され龍野藩が誕生した。
 

幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて
 
姫路城主酒井忠惇は老中として
 
幕府方に属し将軍徳川慶喜に同行したため、
 
姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と
 
龍野藩を主体とする新政府軍の
 
兵1500人に包囲された。
 
この時、新政府軍を率いていたのが
 
輝政の子孫・池田茂政だったとは
 
あまりにも皮肉と言える。
 

龍野は童謡、
 
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ…の、
 
三木露風で有名
 
また手延素麺「揖保乃糸」や
 
うすくち醤油の「ヒガシマル醤油」などの
 
産地で当家においても
 
よく使わせていただいております。
 

春には“龍野さくら祭”が催され、
 
その中のイベントの一つに
 
地元小学生を含む総勢約300人参加の
 
“龍野武者行列”が行われている。
 
 
 
 
 
 
⑧赤穂城
 
 
 
 

●1970年代からしばしば
 

1480年頃、岡光広が加里屋城を築城
 
1600年、池田輝政の弟・長政が
 
赤穂領主となり大鷹城を築城
 
1645年、浅野長直が藩主となる
 

赤穂は「忠臣蔵」で有名な地。
 
江戸城松の廊下で吉良上野介に
 
刃傷に及んだ浅野内匠頭は
 
三代目に当たる。
 

「忠臣蔵」とは先に述べた刃傷事件と、
 
家臣の大石内蔵助以下赤穂浪士47名が
 
1703年12月14日深夜に吉良邸に討ち入り、
 
上野介を家人や警護の者もろとも殺害した、
 
この一連の事件の総称。
 

現在TVや映画などで表現されるストーリーは、
 
討入りから45年後の1748年人形浄瑠璃
 
『仮名手本忠臣蔵』が初演され、
 
翌年には歌舞伎として上演された際に
 
着色されたものが定着している。
 
(例:討ち入り当日雪は降っておらず
 
月が出ていたらしい。
 
またあのような衣装も着用はしていなかった)
 

大石内蔵助らが幕府の沙汰に従い
 
赤穂城開城した時の収城使は、
 
先程ご紹介した龍野城城主
 
(播磨龍野藩の第2代藩主)
 
脇坂淡路守安照率いる
 
4500余りの龍野藩兵であった。
 
龍野藩ってまるで歴史の“助演男優賞”
 
のような存在っだったのね。
 

赤穂には他に討ち入りをした
 
大石内蔵助ら赤穂義士を祀る神社
 
「大石神社」があるし、銘菓「塩味饅頭」
 
内匠頭時代から有名な「赤穂の塩」
 
海岸沿いには“赤穂温泉”等があり、
 
赤穂岬から望む夕焼けの
 
瀬戸内海はとても美しい。
 

悠久の時の流れを感じながら
 
歴史に想いを馳せるには
 
持って来いの場所と言えるでしょう。

お城の説明は二の次でした、
 
あしからず。
 
 
 
 
 
 

⑨篠山城

 
 
 
 

●1980年代より10回程度
 

兵庫県篠山市北新町にある近世城郭

関ヶ原の戦い後、大坂城には
 
未だ豊臣秀頼が健在で、
 
なおかつ西日本を中心に豊臣恩顧の
 
諸大名がその勢力を温存しており、
 
徳川家による支配は甚だ危ういものでした。
 
そのため家康は大坂城の秀頼に
 
睨みを利かせつつ、大坂城と
 
西日本の諸大名を分断する目的で、
 
山陰道の要所である丹波に
 
新城の建設を計画します。
 
それが『丹波篠山城』です。
 

築城に際しては池田輝政・藤堂高虎・
 
福島正則ら層々たるメンバーで
 
家康がいかにこの地を
 
重要視したかの証明となります。
 

城虎口(こぐち:城の入り口のこと)は
 
枡形虎口、しかも二重になっており、
 
実に堅固な守りとなっています。
 
天守台の石垣には、○や◇の刻印が
 
記されている石が見られますが、
 
これは普請に駆り出された大名家が、
 
自ら切り出してきた石を判別できるように
 
つけた目印であると言われています。

平成12年には古い写真や
 
二条城二の丸御殿の構造を参考にして
 
大書院が復元されています。
 

丹波篠山は何といっても
 
“ボタン鍋”が美味い!
 
またここから北東に京都府との県境には、
 
山の中なのに塩の温泉が湧く
 
“草山温泉”ちゅう珍しい温泉がありまして、
 
冬場雪を掻き分け掻き分け
 
何度も塩の湯につかりに行きました。
 
(狸や狐にバカされたわけじゃあなかったですヨ)
 
 
 
画像は全館リニューアル後の露天風呂
 
大谷にしき荘
 
 
 
⑩利神城
 
 
 
 
 
●1980年代より2~3回訪問
 
 
因幡街道の宿場町として栄えた
 
平福宿の北東に位置します。
 
利神山山上にある連郭式の山城。
 
 
14世紀半ばに赤松氏一族によって築城。
 
羽柴秀吉の中国攻めの際、城主は恭順。
 
関ヶ原の戦いの後、
 
池田由之が入城し宿場町を整備。
 
1631年廃城。
 
2015年度から石垣の修復や
 
城址の整備が開始されたが、
 
それまで荒れ放題で
 
石垣の崩落なども見られ、
 
修復にはかなりの時間を
 
要すると思われます。
 
現在見学には制限があります。
 
 
 
 
 
 
兵庫編は以上です。
 
次回は大阪方面を見てみましょう。
 
 
 
 
 
 
 
いつも御訪問戴きありがとうございます
ブログ村ランキングへの入口を
ここにも設けてみました
下矢印のクリックをお願い出来ますでしょうか