セブンイレブンの日本第一号店は、1974年 東京都江東区 豊洲店だが
コンビニという形態はもっと前の1969年に食品系の小売業が大阪にできたのが
最初ということらしい。
 
私が生まれた1965年より後ではあるが
福岡の片田舎での暮らしではお目にかかることはなかった。

バスと電車を乗り継いで1時間半かけて行く福岡天神という所は
当時賑わっていた商店街とスーパーしか知らない少女にとっては
本当にクラクラする所だった。
実際母に連れられて天神のデパートに行き
1時間もすると「ママ、目が痛い」と言っていたのだから。
 
福岡のセブンイレブンが初出店したのが1979年らしいので
中学生以降、天神に行けば見かけたのだろうが
当時の記憶はない。

話は変わるが
中学生の記憶の中で味覚の衝撃を受けたのは
バスで30分かかる西鉄久留米駅にあるミスタードーナツ。
習い事のために一人バスに乗って久留米市まで行き
ミスドでドーナツを買うという行為は
田舎の少女にとっては、ちょっぴり大人気取りな感じがした。
初めて店内に入りショーケースに並べられたドーナツの中から
私の目に止まったのがあのフレンチクルーラーだった。
Google先生によると1973年のフレンチクルーラーは40円とあるが
私が出会った当時の1978年では少しは値上がりしているとしても
100円もしなかったのだ。

それでもまだ親の庇護の元の私は、大人買いなどすることもできず
何個買ったのか記憶にはないが
BOXではなく紙袋だったのでほんの2、3個だったのだろう。
帰りのバスを待つベンチで初めて見るフレンチクルーラーを
一口食べてみたときの衝撃は今でも忘れない。
「なんじゃこりゃ。美味すぎる」
 
グルメな母親のおかげで
幼い時から食卓は一般家庭よりも少しばかりオシャレではあった。
朝食にはサイフォンから淹れるコーヒーに生クリームを浮かべた
ウィンナコーヒーがあり、当時珍しかったアボカドなども食卓を賑わせていた。
生クリームに関しては、一般家庭にあるものでもなく
ケーキといえばバタークリームの時代に
突如として現れた洋菓子店で売り出された生クリームのケーキ。
母親はケーキを買ってくるのではなく
空の牛乳瓶に生クリームを詰めてもらいに行っていた。
その初の生クリームへの衝撃などかき消されるくらい
フレンチクルーラーの衝撃は私にとっては一生忘れられないほどのものだったのだ。
かといって、今でも食べているわけではなく
今思えば、味覚が一つ開いただけのことだったのだが。
 
話を戻そう。
私の生活にコンビニが当たり前のように入ってきたのは
一人暮らしを始めた18歳からで
今でも思い出すのは
買ったお弁当を「チンして下さい」とお願いした時
店員さんがプッと吹き出し「チンだって」と笑われたのだが
今となっては「チンして」は当たり前に通じる言葉になっている。
 
コンビニに限らずスーパーにせよ、ショップ店員にせよ
とにかく社会に出て働くということへの恐怖心はずーっとあったのだ。
何故なら、軽い学習障害があり
そんな症状名もつかない時代ではただのお馬鹿さんで通っていた。
兄から「お前は馬鹿なのだから外で話すな」とまで言われていた。

まず計算ができない。
二桁までの数字を耳にして復唱することは何とかできるが
三桁になるともう無理なのだ。
漢字も覚えられないから読むことも書くこともできない。
人との対話はできるが、知らない単語が一つでもあると
そこで聞くということが停止してしまいただのBGMになってしまうのだ。
 
そういうことで語彙力がないので感覚で伝えようとする癖は
今でも残っている。
「チンして」も私なりの伝え方だったし
唯一私の感覚言葉を理解できるのは息子であり
「あなたは感覚で喋るから、人に何かを教えるというのは不向きだよ」と
言われたことがある。
そりゃそうだろう、「ここはにゅーっとして」「それはひゃーっとやって」など
伝わるものではないが、私の中では頭の中の映像を音にしているのだ。
 
けれど不思議なのは九九は一日で覚えサラサラと言えた。
小学校に上がる前にはお経が空で言えた。

馬鹿なのか天才なのか
親は一喜一憂したであろう。
 
学校に馴染めず、社会に出て行くことを怖がるほど勉強が出来なかったことは
私の今世では重要だったと後でわかるが
そのことを含め、どうやって読み書きができるようになったのか
機会があればそこで書くとしよう。
 
置き去りにされた男たちというサブタイトルの書き出しが
学校に置き去りにされた私の内容になってしまった。笑笑
 
ということで、、、、、、、つづく。