毎日、3時間のヨガをしている間は無になっている。何しろ、掛け声が英語で慣れないポーズをするわけだから雑念があるととできない。

この無理矢理グランディングは私を地面に繋ぎ止めている感じがするよ。


この数日、ヨガが終わると自分の内面ばかり考えている。 

私は?

どうすれば私は幸せになる?

離婚はこの際、どうでも良いぐらいの心境で

考えてみたらこれまでに付き合った人もASDっぽい人が多くいたことに気づく。

つまり私は無意識に自分をわかってくれない人を選んできたのではない?

なぜなら、未熟で自分をコントロールできない、DV、宗教の押しつけをしてくる母とどうみてもASDだった父。

当然家族はばらばらで、仲良く食卓を囲むさざえさん一家なんてファンタジーだとしか思っていなかった。私の愛着なんて育つわけがないけれど、まわりの優しい人たちのおかげで、少しずつの愛をもらって私は意外にもまともな大人になった。

少なくとも人に迷惑はかけないように生きていこう、そう心に決めている。

少し回避傾向はあるけれど自分の心を守るためには必要以上の交流も求めていない。あたり前の日常があって、自分が笑っていて、自分のまわりが笑っていたら、私は充分幸せなんだ。

つまり、私は自分にとってなじみのある共感できない家族ではなく、全く違う優しくて純粋な人を選んだつもりが、実は共感してくれない(できない)人を選んだのではないかと思う。

これまで付き合った人たちにもあてはまる。

その中でも夫は私を大切に思ってくれていることだけは嘘ではなかったのだ。

行動基準が私を喜ばせたい。

私に褒めてもらいたい。

嬉しいことを共有したい。

ただ、言動がずれているから私は怒ってばかりいた。夫が考えることは私を困らせる。しかし、それは親切心から生まれている。

それがわかるだけに、なんと不憫なことだろうと思う。


これまでの点が線になって今がある。


これまでは過去ばかり考えていた。

冷静に考えると、私の混乱の発端は夫。

彼は私を喜ばすのが基本の考えで、今回の旅も私が元気になるならと心良く送り出してくれた。

(心配は全くしないのが夫らしいと思う)

共感出来すぎるほど共感するのに他者目線で考えられないから、ふだんの言動からは想像出来ないような失言や絶対に逃げちゃいけないとこで逃げるもんでトラブルになる。

これが発達障害をきっかけとしただとするならば、きっと姑はかなり手を焼いたことだろう。

そうでなくとも回避性パーソナル障害にあまりにあてはまる。

いずれにしても薬で治るものではないから、まず検査。

せめて、診断までは付き合おうと思う。

これからの人生、自分の常識を頑なに守るのか社会の常識に照準をあわせるか、どちらを選ぶのかは夫が選ぶことだから、私が決められることじゃない。


成長しないな、私は。

年齢ばかり重ねて、心が成長できていないのは私も同じだ。

私の人生で夫は一番私を肯定してくれた人で

同時に一番私を傷つけた人だった。

私にとって、不安や恐怖が隣り合わせの生活は安全基地にはなり得なかったけれど、夫がいなければ私は自分の夢を叶えることもなかった。

この生活を守るために、見ないふり考えないふりをしてきたけど、やっぱり違和感を違和感のまま放置できない。


今は夫に感謝、感謝、感謝でいっぱい。