例えば子どもを起こし送り出し激闘の朝から抜けて、10年ぶりにふっと一息カフェに入ったとする。

赤ちゃんや幼児を連れているときはみんな優しいんだよね。子どもは可愛いくて愛らしくて。

ママ大変ね、ママ一生懸命がんばってるわね。

みんなそう言うのに。


私は今子どもを連れていない。

カフェの店員さんは1人の疲れた女性がきたと思うだろう

私がママをやっているその背景までは見てくれるわけもなく。 

私は1人の疲れた女性なのだ。何で疲れたのかなんて誰もしらない。


今日は気分がよかった。ニコニコで送り出せたから。

私は頑張った。

そんな今日は登校班まで送ってからその足でチェーン店のカフェに来た。

それが笑っちゃうくらいとても店員さんがつめたかった。

あそっか。私部屋着でメイクもしてなくて髪の毛ボサボサだった。


赤ちゃんを連れていたときは店員さんも笑顔で優しいのに。

あれから10何年あの赤ちゃんだった子を育て上げて反抗するくらい大きくなったのに、急に冷たいのは笑える。

子育てに奮闘してボロボロのおばさんになったからか。

なんか孤独だし笑えた。


ママは自分で鼓舞して命と向き合ってる。

急に命を抱えて、医者でも銀行員でも先生でもないのに、命と家計簿と教育のスペシャリストになっている。

そして子どもが手を離れ大きくなればなるほどただ疲れた女性になる。



ママ達は自分のこと後回しにして大丈夫と思ってる。

そして帰ってくるまでに居心地の良い暮らしを整え、また子ども帰宅を笑顔でむかえ、激闘の夜を乗り越える。

そう。

だから、部屋着で髪の毛がボサボサでも、そんなママが行ける、変な目で見ないでくれる、本当の意味でのママフレンドリーのカフェ地区に一つあるといい。

特別に優しくなくてもいいから。