今日は中山道編です。日本橋から板橋まで

お散歩です。ランニングランニング

中山道(なかせんどう)は、五街道の一つで、日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道「中仙道」、「仲仙道」とも、「木曾街道」や「木曽路」とも69次あり距離は約530kmあるが東海道に比べ大回りをするルートで難所もあったにも拘らず往来はさかん。船が許されず川越人足であった大井川など」や、険しい箱根峠など交通難所が多いうえ、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかった東海道を避けて、中山道を選ぶ者も多くいたといわれている。中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとされる。とのことです。幕末、1861年の皇女和宮は徳川家への降嫁のための中山道を使ったのは有名ですね。ウインク

 

それでは、日本橋道路元標からスタートです。ニヤリ

 

 

ちょっとそれて三浦按針居住跡です。ビルの谷間に痕跡も全く身上けられませんが、三浦按針(ウィリアム・アダムス)その人はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で1600大分県臼杵に漂着。徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、相模国三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられ、姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人。とのこと。社会科で習いましたね。ウインク

 

 

長崎屋跡。ここも新日本橋出口で今先は全く残されていませんが、長崎屋源右衛門、薬種問屋長崎屋の名。この商家は、オランダ商館長(カピタン)の定宿となって鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つ訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白などや多くの庶民が野次馬となっているその様子を葛飾北斎の絵が残されている。とこことびっくりキョロキョロ

 

 

 

石町時の鐘(こくちょうときのかね)通りです。

 

 

 

続いて、今川橋跡。神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)、今川氏の尽力により架けられたものでその名が残る、この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋。とのことグラサンニコ

 

 

 

進んで、神田駅を経由ニヤリ

 

 

神田下水跡。明治時代の東京府において、初めて整備された近代下水道網。キョロキョロ

 

 

なんともレトロな喫茶店ニコニコ照れ

 

 

神田青果市場発祥の地。

 

 

 

さすがに年末、神田藪蕎麦の行列でしょうか?ここからだと蕎

麦屋さんまで相当な距離のようですが。。。びっくり

 

 

昌平橋のガード。JR総武線が走っていますね。

 

 

明治41~45年の短い期間だったようですが昌平橋駅(昌平橋

停車場)の跡ですねグラサングラサン

 

 

 

昌平橋を渡り、湯島坂を右折、ここで2kmです。ニコニコ

 

 

右手に神田明神。ちょっと寄ってみましょう。キョロキョロ

 

 

隨神門。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因

幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾って

いる。とのことウインク

 

 

御社殿

 

 

続いて、左手に湯島聖堂ですね。

 

 

 

 

続いて、湯島坂をどんどん上り、国道254春日通との交差点で

す。今はやっていないようですが「かねやす」さんの看板。

享保年間(1716~1736)に、現在の本郷三丁目の交差点角に、

兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出し、これ

が当たり店が繁盛。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷

一帯が燃え、町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火の

ために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。一方で北側は従来

どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかね

やすまでは江戸の内」といわれた。とのことキョロキョロキョロキョロ

 

 

東京大学赤門(旧加賀屋敷御守殿門)です。ちょっと中に入っ

てみましょう照れ

 

夏目漱石の『三四郎』の舞台、三四郎池(育徳園心字池)で

すね。キョロキョロ

 

安田講堂。ちょうどお昼です。ニヤリ

 

 

一旦構内を出て、農学部の方に「上野栄三郎博士と忠犬ハ

チ公」です。ニコチュー

 

 

 

さらに進んで、白山あたりです。八百屋お七のお墓です。キョロキョロ

 

 

 

 

少し歩いて、ここで日本橋から5km照れ照れ

 

 

天丼てんや 白山店でランチです。さすが全国チェーンはずれ

がないですね。天丼¥500+なすトッピング¥70で¥570税込

み。おい照れおねがいしゅうございました。

 

 

また歩いて、千石辺りで6kmですね。ウインク

 

 

巣鴨駅周辺では、徳川慶喜巣鴨屋敷跡地です。静岡から明治

30年から4年間住んでいたそうですね。その後小日向第六天

町へ引っ越されたとのことですが、原因はJR山手線開通の騒

音を嫌ってのことだそうですね。びっくりもぐもぐ

 

 

 

JRを下に橋を渡って染井吉野の碑

 

 

もう少し進んで、巣鴨地蔵通商店街ですね。いつもいつもなか

なかの賑わいですね。ニコニコ爆笑

 

 

巣鴨通を抜け、都電荒川線を渡り、ちょっと休憩です。立花巣

鴨店さんで今川焼¥80をいただきます。すぐ向こうに、都電が

走っています。ニコニコニコニコ

 

 

先に進むと右手に野菜の種を商う商家を残しています、この

通りには名産の滝野川牛蒡や人参、練馬大根等の種苗を扱

う商家が軒を連ねタネ屋街道と呼ばれました。そうですね。キョロキョロ

 

 

さらに進むと、郵便局手前の右手に亀の子束子(たわし)西尾

商店があります明治四十年(1907)の創業で、亀の子束子の

元だそうでですグラサンびっくり

 

 

さて、板橋に入り、新選組局長近藤勇の墓です。

天然理心流試衛館の近藤勇以下一門は中山道を上り、京で新

選組を旗揚げ、幕府方は戊辰の戦に敗れ、近藤勇は江戸に戻

り、一旦は大名並みに取り立てられましたが、下総流山で官軍

に捕らわれ、平尾の一里塚辺りで斬首となり、胴体はここに埋

葬され、首級は塩漬けにされ、京に運ばれ三条河原に晒され

た。とのことです。ニコニコ

 

 

 

 

それでは、今日は板橋駅でゴールです。

 

 

今日も、お疲れさまでした。ビーグルしっぽビーグルあたま