子供と音楽とけん玉とゲーム | 後世に伝えるためのブログ

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小話

子供「世界で最初の人の名前ってなに~?」

 

今日の概要

昨日と同じくバイト。今日以降いつ確実に来られるかはわからない。バーチャルYouTuberの動画観たいの我慢していった。えらい。

いちいちどうすべきか職員に聞かなければならない。マニュアルが欲しい。基本的には子供の面倒が求められる。

子供は音楽に合わせてけん玉をする。と言っても自分で歌いながらけん玉しているだけだが。

「好きな音楽ある?」とか言われると困る。ユニゾンとか中学生ぐらいなら知ってそうだけど。

ちなみに大きなのっぽの古時計は知らない子が多かった。世代差か?

やんちゃ坊主はいつの時代もいるものであまり子供の名前を覚えない自分だが覚えてしまった。

鬼ごっこ。だんだん参加者が増える。しまいに誰が参加していて誰が参加していないのかわからなくなる。鬼が誰なのかもわからなくなる。

 

規格化というのはどんな事項においても重要であり、危険なものである。

この時は何をしろ、という指示の共有とでも言おうか。たとえばマニュアルを仕事の前に渡し、読ませる。その通りに行動させる。これは物事をスムーズに進ませる反面柔軟性を損なうという欠点を持つ。

では規格化があまり起きないとどういう状況になるか、というと「常識化」(本当は文化化と書きたかった)である。文字に起こされないまま、共有するという明確な行為のないままマナーやルールは「共有されたことになる」。これは規格化と似ているように見えるが排他的な性格を有す。マニュアル化である規格化は「マニュアルさえ読めばその中に入ってよい」ということの裏返しである。多くの場合変化を極端に嫌うが変化をもたらさないものに対して攻撃的になることは少ない。常識化はその点真逆で、地雷原を歩かせて踏んだ人間を処罰するように彼らのマナーを守らないものを排除する。新参者は入りづらい構造になり、結果的に高齢化し滅びる。マニュアル化にはこういうメリットがあるのである。

では先述の変化を求めるものに対しての攻撃性はどうすればいいか、を解決することでマニュアル化はより良いものに昇華していくのではないか。それは単にルールを記載するのではなく、その根拠を示すことである。それが時代遅れの事例かどうかはその根拠から議論し推しはかることができる。マニュアルはまず、「マニュアルの根拠の記載」「マニュアルの議論の必要性」の二つを確実に必要としている。

「マニュアルだから是である(/非である)」という考えはよくない。時代に適しているもの、適していないものが得てしてあるからである。

少し話はずれるが私が排除の対象にならなかったのは比較的タブーの少ない、もしくはわかりやすい仕事を任せられたところにあると考えられる。バイトであり、男性の私には運営の根本的作業に従事させることはなく、という形態だ。結局私は親類が学童関係の仕事に従事し、学童で長いスパン(=ライフワーク)で働かない存在であるという期待から雇われた、というのが事実に思える。他のバイトも親類を学童関係の仕事に従事させているものが圧倒的に多い。開かれていなさの表れである。

 

けん玉はゲームか。けん玉の概要の説明はwikipediaさんとかけん玉協会さんに任せるとして、問題なのはこの遊びの形式である。いわゆる「皿」に紐の付いた玉をうまく乗せる遊び。これは明確に成功と失敗が決まっている。そして、そのごく定式的な「成功」を求めてひも付きのボールを振り回すのである。そこにはそれ以上の発展は基本的にない。ごくまれにすご技を披露する天才小学生とかTVで見るような気もするがそれはあくまでレアケースである。同じものを目指す。たどり着いても人と同じ地点である。これよくよく考えると何を人は楽しんでるんだろうか。結果ではなく試行錯誤の過程なのか。はたまたその両者か。

 

もうちょっと書きたいけど寝る。おやすみ。今日はしんどかった。