バイトと自分と | 後世に伝えるためのブログ

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社会史的に重要に思える個人の思考行動を後世に伝えるためのブログ

雑感

クリスマスという単語を意地でもTwitterとかであんまり使わないようにしていた。今思うとそれはそれで負けな気がする。

 

最初、「すごくどうでもいいこと」として述べるつもりだったが、なぜ私が負けと感じたのか、は個人の感情と社会の関係を分析する以上非常に重要なことに思えた気がしたのでそう書くのはやめた。

 

バイトに行った。学童のバイトである。兄的な存在とみなされているのかすごくなつかれる。見た目柔和に見えるためか。

さまざまな学年の子供が閉じ込められる特異な空間である学童は、ヒエラルキーの発達があまり見られないように思える。(俗にいう「スクールカースト」)

原因は圧倒的に頂点に立つ指導員の存在に思える。彼女ら(女性の比率が圧倒的に高いためあえてこの語を使っている)はヒエラルキーの発生を圧倒的に上位の位置から発見し「是正」する。ただし幾何か以上主観、誤解が多い。柔軟なたとえをするならtwitter社の誤バンに似たようなものだろうか。なんにせよ、子供たちはある程度以上同等な存在として接しているように見える。

先述のようにこれは体制(指導員)の一方的な押し付けによって成立している平等であり、弊害もさまざまに見られる。

一つはよくわからない慣例である。たとえば、「水筒は食事前に準備しなければならない」が例に挙げられる。ロッカー前に子供が殺到することを防ぐ目的であろうが、必要以上に厳格であり、食事中に取りに行った子供は厳しく怒られる。

管理者としての性格の強さも問題であろう。私がバイトに行ったところでは室内遊びと外遊びが大別され、その中で室内遊びもいくつかに大別されていた。そして、「この時はこれをしてはいけない」とその都度区分として指導員が指示する。しかし、基準は非常にあいまいであり、特に外遊びの時間は非常に短い。これはおそらく子供に怪我させないため、指導員が多く必要になるため、などの理由がある。これは非常に体制よりの考えと裏表である場合が多く、「子供を育てる場所」ではなく「子供を管理する場所」の性質の強さを物語っている。

ただ、これは所謂モンペなどの問題の存在からも影響を受けていることは明らかであり、指導員のみの責任とは言い難い。

 

子供たちについて。ヒエラルキーの未発達は書いたがその前段階としてかステータス的なものの存在は若干感じる。

それは主な活動である遊びにおいて発現している。私が今回目にしたものは「どれだけうまくけん玉をやるか」ということであった。

多くけん玉をできる子供は長く私を含む指導員に対しその技術を披露し、うまくない子供は人前で披露できる時間は短い。若干ながら世界の理不尽を感じさせて面白い。

 

子供たちにとって私はなんであるのか。子供たちは私の事を「○○先生」と呼ぶ。ただ圧倒的に人気である。食事や遊びはいろいろな子供に誘われる。うれしい現象ではあるが、これはなにに起因するものなのか。複合的なものに起因すると思われる。主な要素はこれに思える。

・珍しい/新しいものであるから

・歳が近いから

これらについてなんとなく検討しようと思ったが正直だるくなってきたのでこのあたりまでとする。

 

また何か書く機会があればyoutuberについて書いてみたいと思う。