幼い頃からの友人に
今も1000キロ離れた土地から
母との悩みごとを聞いて
寄り添ってもらっている

彼女とのLINEのやり取りの中で
ふと気づいたこと…

母はまるで
3歳の幼稚園児のような
可愛い絵を描く…

その可愛い3歳児に対して
大人に話すように
言葉をかけて

大人としての
理解を促す自分の行いは
あまりにも無知であることを

もっというなら母は2歳児に向かって
生きているようなものだから

治ることがないということは…

出来る行いが減り
理解や判断がもっとできなくなっていく
そおゆう病気なのであるから…

この可愛い絵をまだ描けているだけで
ありがたい事なはずなのに
無意識に親であり、大人であることを

期待し、いや切望していたのかもしれない…と


生きることは成長し続けることでもあるが

生きることは否応なく老いていくこと

当たり前の事、緩やかな坂のようもの…





老いてなお美しい白髪とかグレーヘアで

おしゃれを楽しめているうちは

まだそれは入門の段階

真の老いとはもっと酷いもの


私は母とずっと一緒に暮らしてきたから

その影響力の大きさは否めない

やはり私自身がそれを受け止めきれていない

母が混乱する時は私も混乱してしまう…

いたらなさに母に対して申し訳ないだけである


毎日の変化に必死に右往左往して関わり

そんな介護の最前線で見えない病(敵)から

母を守ろうと…守り切れるはずのないものなのに

必死に戦おうとする私と受け入れざるおえない母


その変わってゆく母の姿が悲しすぎて

何処にも向けられない苛立ちまでも

病気と戦いながら、病気イコール母なので

結局母に牙をむけてしまうことになる


自分の弱さや甘えや無力さ

虚しさ、さみしさ…

今も隣の部屋から母の咳が聞こえてくる

この咳も痰も、薬はあまり効いていない気がする

私があとどらくらい母といっしょに居られるのか


わかりませんが…


逢うは別れの始まりでありその連続が人生ならば

そこからの学びを次に繋げて生き続け

ついには全ての学びも欲も物忘れをしながら

痛みも悲しみも自然と手放しながら

人は終わりを待つものなのだと


認知症は他の臓器の病における

痛み止めの役割を忘れることが担い

自らが自らでもっとも責任感を持って

生き抜いている病なのかもしれないと

また一つ気が付きました


意識的に立ち止まりながら
母の病気のことを考えても答えは出ない

むしろ悩みの真っ只中でこそ

頭では無く体験から導かれてこそ

腑に落ちるというか、納得ができるもの


沢山認知関係の本も読みましたが

現実には、やはり100人いれば100通りで

マニュアルどおりには解決策はとれません

そのことを現場でよくご存知だからこそ

ケアマネさんは傾聴なわけで机上の空論を

私に向けてくることは決してありません

本当に感謝であります


これからどれだけリカバリーできるのか 

自分自身を大改造であります
いっきに完璧は無理でも…

行きつ戻りつつ
まだまだ続く
母との道は…


本日もありがとうございます 
これからも大切なこと

一つでも気づけますように…

そして、穏やかに、静かな心で生きたいです

今日の写真は母が作ってきたアイスバー

しんどい暑さも飛んでゆけ〜であります


みなさまもどうかお幸せでありますように…



iPhone15にとりかえましたが、純正のイヤフォンがなかったのでとりあえず合ったものを買ったのですが、見た目はそっくり、でも耳に入れると大きくて収まりずらく結局楽天で純正見つけたので購入しました。届いたらご飯作りながらテヤンさん聴くのが楽しみです。