おはようございます!
引き続き 「私は嫌われている」について。
というか
要は語りたいことは礼儀ってことなのだけれど
礼儀って
相手の気持ちになって考える力ってことなんですよね。
自分と人は違うから
全てが全て相手の気持ちになって考えられるか?っていったらそれは難しいし
時には間違ってしまうこともあるけれど
ある程度は万人共通した礼儀ってあるよね、っていう話です。
例えば わかりやすく言えば 遅刻というもの。
私は昔から 遅れるということを殆どしたことがありません。
5~10分前行動。
ちょっと前には必ず着いていて しっかり約束の時間に会うことを試みます。
仮に遅れる場合は相手に連絡しますしね。
ところが 自分の常識は人の常識じゃない場合が結構あるわけです。(海外の感覚は別として)
遅れることになんの感情も沸かない人の場合
遅刻に関しての「気の遣い指数」に変化はないと思います。
この「気の遣い指数」を
自分に気を遣うか 人に気を遣うか?
時と場合によるけれど 人に気を遣うことって結構あるし大事だと思いますね。
別にいい人ぶっているわけではなく 相手を敬っているということなんだと思います。
きちんと向き合いたいっていう気持ち。
それは 相手が年下だろうと子供だろうと一回しか会わない人だろうと同じです。
私はつまりこういう性格だから
相手が だらだら遅刻してきて ごめんもなにもないと
私はあなたにとってどうでもいい系なんだなぁ
と思ってしまうわけです。
ここでさらに「さみしんぼ指数」が増加し 2重苦を味わうことになるわけです。
まぁこれは私の性格がそうさせているのだから
相手はどうでもいい人と思っていないかもしれないけれど。
ただ こう考えると
遅刻ひとつをとっても 感じる人と感じない人がいて
そこには相手という存在が見えるか見えないかなのですよね。
年々世の中が自分本位になっているように思います。
自分の都合とか 自分の利益とか
自分のことしか見えない人が増えているなぁと。
これデジタル生活で空気を読まなくてもいい社会システムと
教育が原因と思いますね。
これから日本はどんどん貧しくなっていきますけれど
全体が貧しくなっていけば
嫌なことを経験することが増えるから相手の痛みも考えられるようになるかしら。
一方で人口減で様々にロボット頼りになるから 益々加速する?
良いこと悪いことが逆転したり 多様化となんでもかんでも容認したり
ニュートラルっちゃーニュートラル。
ある意味違和感の中で生きています。
さて 今日はお弁当無しデー。
昼に帰ってくるというので 弁当に使おうと思っていた材料で昼食ももう作っておきました。
あとは 味噌汁というものが+αされます。
今は夜ラストまでレッスンです。
一日を丁寧に過ごします。