やっと雨が上がりました。
雲の多い朝ですが富士山方面だけ晴れてました。
さて頼朝を名乗る私は又々歴史の知識をちらつかせます(爆)
「平家でなければ人では無い」とまで云われ
平清盛の娘は天皇の后とまでなり栄華をほこりました。
しかし源平合戦にて破れた平家は屋島にてほぼ壊滅。
祖母「清盛の妻二位の尼」に抱き締められた
6歳になる安徳天皇は
「波の下にも極楽浄土という都があります」と説得され抱き締められたまま屋島の海底に入水。
その時に三種の神器を携えその宝刀も失われました。
世の習わしとして負けた側は皆殺しが当然でした。
そして生き残った平家いち門はことごとく
人籍未踏の山中深く隠れ住みました。
これが平家の「落人部落」です。
スミマセン又々、知識をちらつかせてしまい、、、
「講釈師視てきた様な嘘をつく」のような私の話をな拝読していただき有り難う(笑)
かって着飾り姫様とかしずかれていた者も獣の住む山中深く入り込み獣同然に生きていく事を余儀なくされました。
頼朝を名乗る私はこの人生の無情に触れて
とっくに風化した話ではあるかも知れないが、、、
その落人を訪ねる事にどれだけでも意義があるんではないかと思いました。
又何で源頼朝が何でこんなに落人狩りにこだわるかと云うと
源氏の末裔の自分1人殺さずに残したために天下をとってしまったということから根絶やしにせねばならぬと実感してたからです。
まずその旅は手始めに先日にカッペライダーさんのブログにあった湯西川温泉を訪ねてみました。
私の手元には「臼の平山刀」なる鉈が在ることからでもありました。
それでもいざという時に身を守る機能で刃先は
槍状にしてあります。
そして資料など見ると追っ手に見つからない様に朝に泣き声を上げる鶏は飼はない。
男子が生まれても遠方から目立たない様に鯉のぼりは上げない等の風習があることも知りました。
そしてとくに目に付いたのは平家塚といったこんもりと土が盛り上がった場所でした
これはもう使わなくなった武具、鎧等埋めた場所でした。
むしろ身分を隠す為でしたね。
次に訪れたのは四国の「葛(かずら)」橋です。
四国山中の祖谷渓にかかる葛を編んで作ってある釣り橋です。
追っ手が迫って来た時には谷に蔓を切り落としてしまう様にしてあります。
(写真はネットから)

ひえつき節にも歌われている九州山地の真ん中にある落人部落です。
何年か後にここに落人が居る事を知なりった頼朝が
那須与一に追悼を命じました。
那須与一は弓の名人で知られてますがこの時には
病気で動けず弟の那須大八郎に代理に命じて行かせました。
山中深く入り込むとそこには男子は山に狩りに女子は畑仕事に明け暮れている姿で慎ましく暮らしている姿をみてもはや戦い等の気持ちとは無縁の人達を見ました。
もはや殺す事など必要無いと彼らと打ち解けて
農耕の技術を教えたりして鎌倉には追悼したと届けて滞在してました。
そして彼らの世話役の平清盛の末裔の
つるとみ姫と恋仲にもなってました。
そんな折鎌倉から戻れと命がありました。
そのときには姫は身ごもってました。
泣く泣く戻ったがもし男の子なら後を継がせるから連れて参れとの言葉を残して帰って行きました。
子供は女の子でした。
代々椎葉村のおさを勤めさせました。
そんないきさつから村人の姓はほとんどが那須姓となってます。
いつぞやこの椎葉村の事をブログにアップしました。
それは栃木県に那須神社という那須与一のゆかりの神社があるといったブログでした。
ブログを見た仲間のヒラランさんは地元でもある
那須与一の縁の神社繋がりから九州の旅の一貫として椎葉村に興味を持ち訪ねて行きました。
定番の観光地では無いこんな場所を訪ねてくれるなんてブロガー冥利につきます。
源氏と平家の両軍が仲良く暮らす村といった内容の彼のブログでした。
今でも何でイスラムにしろお互い仲良く出来ないものかなー
そすれば今のこんな悲劇は起き無いものですがね。
話は飛んでしまったが次は完結のライハ頼朝とします。
読んでいただきありがとうございました。



