【屁理屈はこれで最後に】
私自身の現在の生活がそうなのですが、合理的な思考や行動が行き過ぎて感情がなおざりになる傾向に陥っています。そのため、意識、無意識共に感情を大切にしたいという方向に向かっているのです。行き過ぎともいえる今の合理的な社会に感情重視の流れがあるのでしょうか。どうでしょう。
ただ、感情に重きを置いたところで、ある程度バランスはとれても、それが根本的な解決にならないのかもしれません。そして、感情重視とは別に、事物や人間をありのままに見ようとする態度があります。外見でいうと鏡に写った自分の姿や他人を見て自ら正すといったところでしょうか。表現の世界でいうなら現実描写や自然主義文学になると思います。その自然主義文学で先駆的な役割を果たしたのがエミール・ゾラです。
「・・・わたしは、レッテルなしの、ただの小説家でありたい。もし、どうしてもわたしを部類分けしたいとおっしゃるのなら、自然主義作家と言っていただきたい。・・・わたしの作品は党派的なものでもなければ、プロパガンダでもない。真実の作品なのです。」※
これは、アルベール・ミヨーという批評家の言説にこたえたゾラの手紙の一部です。
ゾラの代表作である『居酒屋』には、延々と人間の嫉妬や憎悪があからさまに描かれていて、目を背けたくなる汚辱の場面もあります。主人公や登場人物の心は愛とはかけ離れた執着心や虚栄心ばかりで、常に感情に流され、それが人生を破滅へと向かわせます。そして、それらの感情が何ともしがたいものであるかを考えさせられます。貧しく困難な状況だけが、そうさせるのでしょうか。拾い読みするだけでも、私自身の内に『居酒屋』の登場人物とさして変わらない執着心や虚栄心が見えるのです。
日本においては、自然主義文学に対して偏った解釈がなされてしまい、客観的に人間や社会を見るという自然主義文学の主旨が正しく伝わらなかったようで、このことが今の日本の社会に何らかの影響があるのかないのか、私には分りません。
事物を自分が抱いている考えや観念に無意識に合わせようとすることも、ありのままに見ることを妨げているようで、本当の姿が見えていないのではないか。
一週間ほど前、こう考えて下書きをしていたのですが考えが変わってきました。しかし、これはこれで、私の足跡として残しておきます。屁理屈はこれで最後にして、もう書かないようにしたいと思っています。
※引用:『居酒屋』 (あとがき 古賀照一)
p.609~610 新潮文庫