おはようございます。
風水師の圓山(まるやま)真央です。
しばらく前に、
少し判断に迷うことがありました。
卦を立ててみても
ますます判断に迷うトルネード状態で、
なかなか糸口が見つかりません。
その時に、なぜだかフッと
人はめんどくさいなと思ってしまった。
めんどくさいのが悪いということでなく、
そんな風に答えが出せずに
もたもたしているのが困ったものだなと。
たぶん他の生き物たちは、
自分たちの生をどう全うすべきかでは
迷ったりしないでしょう。
「人は考える葦である」というけれど、
考えないことで
迷わないし、悔やまないというなら、
なんだかその方が
自然体な生き方のように思えてみたり…。
そんな時には、
毎朝のルーティンである祈りの言葉さえも、
人の決めた理でしかないと思えてしまいます。
そんな形に頼らなくても、
確かに感じられる波動があり、
何かは定かでない存在からも
伝わるものはあるのだと思うのです。
いつだったか、初めて訪れた場所で
名前を呼ばれて振り返ったら、
自身の落とし物に気づかされたように。
祈ることが必要ないのではなく、
自分なりの言葉でも、きっと
本当に伝えたいことは伝わっているのでしょう。
特別な信仰などはないのに、
苦しい時や困った時に
つい神頼みしていまうのも、
自然の中のさまざまなものに神というか
大いなる存在が宿るものだと、
生まれながらに感じているからでしょうか。
だとすれば、無理に判断しなくとも
物事は在るべきところに収まるのかも。
そうして判断することを手放した後で、
ありえないほどあっさりと
問題は解決してしまい、
悩んだ時間はなんだったのかと思うことに。
世の中が不思議に満ちているのか、
判断しなければという執着を手放したことが
功を奏したのか。
還暦を過ぎても
まだまだ分からないことばかりですね。
早朝の住宅街を、どこかの飼い猫が
悠々と歩いていくのを見ながら、
考える葦の未熟さを実感。
何はともあれ、
今日も元気出していきましょう。
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