モモの間から生まれたモモ太郎が、お爺さんお婆さんからキビ団子をもらってイヌ・サル・キジを家来にし、オニヶ島でオニを退治して「オニの財宝」を持ち帰り凱旋したと云う「オトギ話」があります。

 「桃から生まれる話」は幕末の創作のようで、元々は「爺さん婆さんが桃を食べて若返り」、モモの間から生まれたのが「真実」のようですww。

 「桃」と言えば、古事記の「黄泉の国」の条で、

イザナギが、亡き妻を連れ戻したいと黄泉の国に行きましたが、イザナミは黄泉の国の食べ物を食べた事から「恐ろしく醜い姿」になっていました。
その姿を見たイザナギが逃げ出した事から裏切りを知り、イザナミは雷神と黄泉軍に追わせました。
イザナギは、地上と黄泉の境界まで辿り着き、そこに生っていた桃の実をもぎ取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退しました。

と、書かれています。つまり、良し悪しは別にして「イザナギが自ら招いた災難を、桃のお陰で救われた。」と云う神話です。

 話を「モモ太郎」に戻して、「鬼の財宝」が鬼に所有権があるかどうかは判りませんが、福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」で、

(現代語訳)桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くためだ。けしからんことではないか。
宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。
また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である。

と記したそうです。

 福澤が「桃太郎」の原典を知っていたかどうかは判りませんが、「その財宝は鬼に所有権がある」と決めつけていて、盗品かどうかも判断していないようです。つまり、人が価値が有ると判断したモノを「財宝」と言いますが、鬼にとっての価値観は不明にもかかわらず、「桃太郎が奪った」と断言しています。

 理系の私が考えるに、「桃」と同様に、人には価値が有っても、鬼にとっては「ゴミ」かも知れません。人が「核のゴミ」を地下深層に貯蔵するのは、ゴミが大切なのではなく危険だからであり、「その財宝」も鬼にとっては危険物かも知れませんww

 節分の豆まきは、一説では「鬼の本質は自分の邪心である」とされ、歳の数だけ溜まった邪気(邪鬼)を追い払うと解釈すると、モモ太郎は自らの邪心と戦い、勝利したことで「その清い心」が爺さん婆さんの宝になったとも言えます。

 大店法、アイヌ新法、政治資金規正法、やODA等々、政策には人の邪気が入り込んでいて鬼のように「裏金」が動いています。「裏金」には定義が無いと首相が言っているぐらいなので、私が「政策の裏金認定」をしても問題は有りません。

 但し、「邪心」があってこその人であり経済発展の源泉でもあるので、国家としては「鬼」が一概に悪者とは言えません。実際に会ってみると普通のオジサン・オバサンだと思いますww