昭和憲法(前文)

・・・ 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 ・・・

 この「信義に信頼して」の「に」は文法上の間違いであり、憲法改正時に正しく「を」とすべきと言う人がいるようです。

 この場合、諸国民の全てに「信義」が有るのなら何方でも良いのですが、少なくとも「近隣諸国」には信義の無い人が散見されるので、「に」と「を」では安全保障上の大きな問題になります。

 例えば、「貴方が善である事に 信頼して、お金を貸します。」の場合は、「貴方は善である」事が確定的です。一方「貴方が 善である事を信頼して、お金を貸します。」の場合は「貴方が善である」かどうかは分かりませんが、取り敢えず「善であると信じる」事になります。

 この二つの文章の意味を入れ替えても間違いにはならないとは思いますが、これは「相手の特性」と「自分の思い」の何方を優先するかの違いであり、極端に言うと「隷属」と「自主」との差があります。

 憲法前文の「諸国民の信義に信頼して」の意味は、諸国民の信義を疑う余地も無く「受動的に信頼する事」が必須となります。 ここで、「諸国民の信義に信頼して」の「に」を「を」に変え「諸国民の信義を信頼して」とすると「能動的に信義を信頼する事」が必要条件になります。

 これは、「信義」には有無があり、更に「信頼」には「そもそも相手が信頼できる人格である場合」と「自分が押し付けがましく相手を信頼する場合」の二通りの意味が有ると考えられるからです。

 この事から、昭和憲法前文は「・・・日本国民には崇高な平和の理念が有るのと同様に、当然ながら公正と信義を持っている諸国民に信頼をおき、命を預ける決意をした。・・・」と言う意味になります。

 理想世界から現実世界に目を移すと、公正でも信義も無い諸国民の存在も考えられますが、その場合は日本の独自判断は「憲法上」出来ず、戦勝国連合(通称、国連)の判断を仰ぐ事になります。但し、戦勝国連合でも結論が出ない場合は「より強い国に従う」以外には選択肢はありません。

 憲法が対象にするのは「平和を愛する諸国民」なので、これに反する場合は、「崇高な理想を深く自覚する日本人」は他の「平和を愛する諸国民」を見つけて「生存と安全を保持」する義務が生じる事を意味します。

 当然、他人に頼らず生存しようとする事は、信頼できる筈の諸国民をも信頼しない事になり、憲法違反になります。

 「信頼」とは相手に対して「総てを任せられ存在であると、評価する事」であり、信頼がおける国民を見つけて日本の平和維持を一任する事です。

 例えば、「ウクライナに平和維持軍を派遣しているロシア」とか、「世界統一を願う中共」、或いは「押すなよ!押すなよ!・・・もとい、侵略するな!と後ろからの掛け声が大きいアメリカ民主党」。これらの「平和を愛する諸国民」に日本の平和を委ねなければなりません。

 GHQ欽定憲法(通称、日本国憲法)を守ると、憲法の趣旨通りに日本国は消滅します。