個々の「細胞」があり、手の細胞と足の細胞は、その個体構造は同じですが、総体としての役割が違います。足で物を掴んだり、手で歩くのは「少し不便」です。

 

 その「細胞」は、あるルールに従って結合し「超細胞」になり、例えば「人」として意思を持ち、一応統制の取れた活動をします。この構造を拡張すると、人はルールに従って空間的結合をし「人間組織」としての意思を持ち、一応統制の取れた団体活動をします。現在では、国家がこれに当たるのですが、まだ人間は「未熟な動物」なので様々な混乱に直面します。

 

 民主主義とか共産主義とかは、国家体制を維持するための「原理」であり、思想家が考え出した人工的な社会理念のように見えますが、過去に同様な社会構造の集団(国家)が有ったとしても、「権威のある思想家」が理解していなければ、「原始社会」などと言って貶められます。

 

 これは、傲慢な「進歩主義者」が主張する「過去よりも現在の方が正しい」と云う愚かな判断を、社会が容認する事で正当化されます。民主主義社会では有り勝ちな誤解ですが、この誤解が拡大すると「国家社会主義思想」が生まれ、その極端な例が「ナチスドイツ」です。

 

 日本も他人事ではなく、戦前にこの思想家が暗躍していました。これに対抗したのが「昭和天皇」でしたが、民主主義の社会制度下では成す術が有りませんでした。この事から考えると、「(科学的)民主主義」と「進歩主義」との組み合わせは相性がよく、それ故に危険性を含んでいると言え、この弱点を利用したのが、所謂「民主主義革命」です。

 

 一般的な国家では、その大多数が「労働者」なので、労働者が「未熟な動物」である場合、「生産物や資本家の資本は、元々は労働者が生み出した果実なので、労働者は資本家から果実を取り戻す権利がある。」と言われ、「民主主義革命」が起きます。

 

 これを、「暴力」を使って革命を成功させたのがソ連と中共で、「民主主義」を使って革命を企んでいるのが「日本共産党」です。日本の「民主主義愛好家である平和主義団体」が暴力的なのも、起源がここにあるからです。

 

 共産主義思想の中でも特に「主体思想」がこの究極で、「指導層と労働者は同じ構造の細胞から出来てはいるが、その役割が違うだけであり、例えば、能力のある手の細胞が、努力をしても脳細胞になることは出来ない事は明らかで、この固定化された『細胞の役割分担』が国家構成の自然型である。」とされています。つまり、自然国家とは「人民は脳以外の細胞」であり、「共産党が脳細胞」の「超人間」であり、この構造が国家の最終形態である、とされています。

 

 これは、唯物論を発展させた思想で、「進歩主義」の危険性を示していると言えます。爪や毛髪のように「不要とされる部分」は切り捨てる事も自然であり、罪悪感は有りません。例え「革命同志」でも不要な人間は、切り捨てられる事でその役割を果たすからです。

 

 一方「保守主義」は、「正しい過去があるからこそ現在があり、現在が正しければ未来が拓ける。」と云う理念であり、現状に不都合がある場合には、過去を参考にして改善していきます。つまり、過去の国民も「本来の日本型民主主義」の構成員であり、現在生きている国民の判断だけで決定することは出来ないと云う事になります。

 

 「権威ある学者」は民主主義とは「西洋型民主主義」であるとし、戦前や明治以前の「日本型民主主義」は否定します。

 

 「西洋型民主主義」では、「現世利益を追求する利己主義の強弱」で政策が決定され、「保守思想」とは相性がよくありません。