現在の日本は「自由主義国家」であるとされていて、昭和憲法には「自由」の文字が幾つか書かれています。 「自由」にも微妙な意味の違いがあり、「する自由」は”Freedum”で、「しなくて良い自由」は”Liberty”です。

 

 「不自由」の場合は英語でも「Challenged.Lame.Cripple. Blind. Handicapped.Inconvenience.Disabilities.」など、意味やニュアンスの違いで数多くあるように、日本語でもその意味は沢山有ります。当然「不自由」その事自体が「不自由」であるとは限りません。ここでも「主観」と「客観」が重要になります。

 

 刑務所に入る事は「客観的」にみて、普通の人にとっては「不自由」なのですが、自分の力で食べていけない人が「刑務所に入りたいので強盗をした。」と言って自首する人は「不自由になれる自由」を要求し、殆どの場合、法律はこれを叶えてくれます。但し、期限が過ぎると釈放され「自由を強いられる不自由」も、法律で強制されます。この犯罪者にとっての「主観」では「シャバでの不自由な生活から解放された自由」と感じているからです。客観的には「他人に被害を与えることで課せられる不自由」と言えます。

 

 逆に、「表現の不自由展・その後」では、主催者が自由に展示し、勝手に中止しました。これは、主観的に「不自由な表現物こそが自由を象徴している」と感じているからで、客観的には「他人が不快を許容する事で得られる自由」と言えます。

 

 憲法第12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

 「自由の保持」の為に努力義務が課され、国民は「自由の行使」には責任を負わされ、「不自由」を強いられます。自分が、煩わしい憲法解釈や、世間から遠ざかる「自由」を得るには「犯罪を犯す事」が手っ取り早いと云う事です。これは、本来「自由」は権利なので放棄する事が可能な筈ですが、憲法では自由権の放棄を禁止している為に「不法行為を以て自由(客観的には不自由)を勝ち取る」しかないからです。

 

 理想的には、自分の能力で生活できない場合に、法を犯すことなく不自由になれる権利が有れば、社会は少し安全になります。憲法で「自由の保持」が義務付けられている為に、生活保護を受けている人も自由と平等を主張しなければならなくなり、「勤労の義務」を果たしている人よりも「生活保世帯」の方が収入が多い場合も起きます。会社勤めの人は、会社により社会的拘束を受けていて「不自由」を強いられていますが、「公共の福祉」を理由に、罰せられることは有りません。

 

 何となくこれが、どう考えても「客観的にみて不自由」な共産主義国家を目指す社会主義者が、犯罪を犯してまで「主観的な自由」を求めると云う、「革命の行動原理」のような気がします。

 

 革命が成功した暁には、共産主義国家では「主観的な自由」は禁止されるので、運が良ければ「希望通り刑務所に入り」自由を謳歌できます。もっと運のよい人は天国で「真の自由」を得ることが出来ます。これは「不自由になれる自由」と言えます。