モノを書いたりすることと"不謹慎"なる言葉との相関に係る一考察、あるいはそれに名を借りて屁理屈をひたすら書き殴ることによる不毛で始末の悪いストレス発散【その1】


1.緒論

ヒトの持つ深みや重厚さ ― とでも言えばいいのか、いい言葉が見つからない。対面して話しているときにこちらがぐっと本気になってしまうような何か、なのだが、上手く表現できない ― は、絶対に

"履歴書に残るようないろいろなステータスなり経歴、資格の質や量”

に正比例しているのではないと思う。人脈なり表現力なり、仕事のスキル、金を稼ぐ能力といったものは、いざ社会なるフィールドに身を置いてみないと分からない。身を置くのみならず、それから何に関心をもってどう立ち回るかのほうがむしろ重視されるべきではないか。理系臭のする言い方をすれば、やはり"実験"してなんぼの部分も大きいだろう。

また、実地に仕事なりプライベートなりで動く中で、その深みなり重厚さなりのもつ固有の"イロ"が、認めてきた価値観なり、依拠してきた集団なりにとり本当に好ましいのかは絶対に問われてくる。

合うならよし。

合わないならばどうするのか?諦めるのか、価値観なり集団なりをカクメイ ― あるいは単なる破壊活動やもしれない ― しにかかるのか、愛想を尽かして他のどこかに撤収するか。自分はこうですよ、と一言で片付けて他人の怨嗟の目をものともしないでいるのも上手くすれば格好が良いだろう。


さらに言えば、先に述べた深みなり重厚さは容易には"眼に見える物"には変換できない様に思う。日頃の言動でもって表すこともできよう ― むしろ、中身なくして口八丁で生き残れる人間のほうが皮肉抜きで尊敬できると本気で思うが、それはここでは置いておく ― し、発する雰囲気なり実地の行動なりファッションなり、きっちりと言語化・グラフ化・数値化できない因子に依拠している部分が大きいのではないか。また、"ヒトの頭の中"をどう形にするか、という問題についても同じことが言えるのかも知れない。

以上をもって緒論とする。



2.表現について

話がいきなり派手に脱線するが、昨日も渋谷区内で痛い飲み方をした。カウンターの隣にはアーティストが二人いて、紅茶なりアルコールなりを飲みつつ"次回の展示にどんな作品を出すか"について話し合っていた。

自分は"我ながら腹を抱えて笑ってしまうほど保守的な業種"に身を置き日々悪戦苦闘し、あるいは半ば厄介者扱いされつつ過ごしている身で、そういった話を聴いていても上手く理解が出来ない。自分が実地にそういった活動を本気でやったことがないからだろう。

ただどうも、アーティストが日々行っている活動というものは、先に述べた"深みなり重厚さ"、"ヒトの頭の中"をどうにかして眼に見えるものに変換すること、もっとざっくり言えば"表現"ということなのだろう、と思う。



3.モノを書くことについて

ここであえて、話を"モノを書く"ことに絞り込んでみる。

話を具体例から進めていく。そのために、こちらのリンクをクリックした上でひと通り目を通して頂きたい。

吉祥寺の立ち飲みの店で、泥酔しつつ隣の女性客と"ぼくぶろぐはじめたんですう"といった話をしたときに、その方から勧められたブログ。

鈴木杏里という現役AV女優のブログなのだが、実によく読める。アメーバブログに数多い芸能人ブログに見られる絵文字と改行たっぷりの文章に比べて、ぐうっと"腹の底に来る"。話題のチョイスも話の切り口も、見ていてぽんと膝を打ちたくなって、あげくに笑い出してしまった、"うまいよ"と。

 ― あの吉祥寺の酔った女性、自分の趣味嗜好をきっちり見抜いていたらしい ― 


さて、若干打撃力のあるリンクによって読者諸氏の態勢を崩したところで、話の本筋に戻る。

モノを書くというのは表現の一つの手法であることは皆が認めているところだ。小説なり随筆なり、あるいはブログなり、まず先に述べた"深みなり重厚さ"、"ヒトの頭の中"を眼に見える言語というものにどうにかして変換し、次にそれを実地に文字に起こす。前者にあってはまず自分の持つ何ものか ― 往々にしてひどく掴みどころのない抽象的なものだ ― を具体化するだけの分析力なり何なりが必要だろうし、後者にあっては文章を書く能力が問われる。

戦略と戦術の関係、にも例えられるやも知れない。

また、それまで何を見てきたか、現在どういう生活をしているか、ということは、前者の作業をする材料 ― しつこいが、先に述べた"深みなり重厚さ"、"ヒトの頭の中"の事を言っている ― にも影響を与える。また、生まれ育った環境なり教育なり、吸収してきた音楽や文章といったことで言えば、後者にも大きく影を落とすだろう。

※【その2】へ続く。