焼きとんのお店、《鳥佐》
2003年から2006年まで、俺は仕事の都合で三重県津市に住んでいた。
その当時足繁く通っていた焼きとんの店が、津駅のそばにあった。
《鳥佐(とりさ)》という名前だった。住所は確か津市羽所町だったと思う。
間口は狭いのだが、鰻の寝床のように、奥行きが深かった。
手前から、カウンター、テーブル、そして一番奥が畳の座敷だった。
座敷のすぐ横をJR紀勢本線、近鉄名古屋線が走っていた。
最初は、単にその安さに引かれて、通っていた。
串一本が確か40円か50円くらいだったと思う。
ビールはキリンラガーの大瓶のみで、500円しなかったのではないかと思う。
腹一杯飲んで食べて、2000円でお釣りが来るのである。
ちょっと今どき考えられないほど、安かった。
そのためか、いつ行ってもお店はお客で一杯だった。
カウンターも、テーブルも、奥の座敷も、たいてい埋まっていた。
ここで日本酒を飲んでいる人を、俺は一度も見たことがない。
みんなビールか、焼酎だった。
ここの焼酎が、また一風変わっていた。
《ピンク》と呼ばれる、ワイン割りの焼酎を、みんな好んで飲んでいた。
最初見たときは、得体の知れないピンク色の液体が、薄気味悪かった。
あんなのを飲んだら、一発で悪酔いするに違いないと思った。
何度か《ピンク》を飲む機会はあったが、俺は基本的にビール党なので、
ほとんど焼酎は飲まなかった。
次第に俺は安さ以外に、この店に引かれるものを感じるようになり、
来店の頻度を上げていった。
看板である焼きとんが、滅法うまいのである。
トントロとナンコツを塩で焼いてもらったのが、俺の大好物だった。
炭火焼きの独特の芳ばしさが、最高だった。
ひと晩で40本から50本くらい食うのは、当たり前だった。
また、俺の理想とする飲み屋の雰囲気が、そこにあった。
いや、ひょっとすると反対か。
《鳥佐》との出会いによって、俺は自分の理想の店のイメージを、
初めてつかんだのかもしれない。
会社の同僚ともよく来たが、一人で来ることの方が、圧倒的に多かった。
俺はビールを飲みながら本を読むという、現在のスタイルを、ここで確立した。
《鳥佐》にはテレビもラジオも置いてないため、非常にありがたかった。
雑音に煩わされることなく、本の世界に没入できた。
焼きとんを食いつつ、ビールを飲みつつ、本を読むのが、俺の至福のひとときだった。
あのときは、日々の楽しみと言えば、それくらいしかなかったような気がする。
2004年9月29日、台風21号のために床上浸水を食らったときも、
その晩は同僚に誘われて《鳥佐》で飲んでいた。
いささか不謹慎の気がしないでもなかったが、《鳥佐》の誘いは断れなかった。
横浜に帰ってくることが決まったとき、
俺が真っ先に考えたのは、もう《鳥佐》に行けなくなる、ということだった。
正直なところ、同僚たちとの別れと、《鳥佐》との別れと、果たしてどちらがつらかったのか、
よく分からない。こんなこと、元同僚には口が裂けても言えない。(笑
津での最後の一週間は、毎晩《鳥佐》に通った。
横浜に戻ってきて、俺は《鳥佐》に代わるべき店を、あちこち探し回った。
焼きとんの店を訪ね歩いて、トントロとナンコツを食べてみたが、
どれも《鳥佐》にとうてい及ばなかった。
せめて雰囲気だけでもいいから、《鳥佐》みたいな店がないかどうか、探しまくった。
細長い店内で、カウンターがあって、テレビもラジオもなくて、瓶ビールは大瓶のみ。
そんな店を、かなり方々を探し回ったが、皆無に近く、あってもいまいちだった。
やっぱり《鳥佐》は《鳥佐》しかなく、代わりは存在しないのだと悟った。
俺は今年の夏、念願叶って、三年ぶりの津への帰郷(心の故郷だから)を果たした。
真っ先に向かったのは、もちろん《鳥佐》である。
両隣の店が新しくなっていたが、《鳥佐》のたたずまいは三年前と同じだった。
ドアを開けると、串を焼いているご主人が「らっしゃい」と言う。
この「らっしゃい」がポイントである。
「いらっしゃい」ではない。「らっしゃい」なのである。こうでなければいかん。
なにもかも三年前とまったく同じで、嬉しくなった。
俺は定位置のカウンターに座った。
さっそく、トントロとナンコツを塩で焼いてもらう。
昨今の不景気で、もしや瓶ビールが中瓶になっているのではと、
いささか不安を感じていたのだが、それはまったくの杞憂に終わった。
昔と変わらぬ、キリンラガーの大瓶が、ドカンとカウンターに置かれた。
俺は心の中で拍手喝采していた。
俺はきゅうりの漬物を食いながら、ビールを飲みつつ、本を読んだ。
時間が三年前へ逆戻りしたような錯覚に陥った。
そして焼き上がった串が、カウンターに置かれた。
トントロをかみ締めて、芳ばしい脂の風味が口の中にジュワっと広がったとき、
俺は感動のあまり、本当に泣きそうになった。
しばらくすると、おかみさんが声をかけてきた。
もしや、以前に来てくれた方ではないのかと、尋ねられた。
ちゃんと覚えていてくれたのである。
翌日の晩は、元同僚たちと《鳥佐》を訪れ、一番奥の座敷で飲んだ。
《ピンク》か《イエロー》を飲んだような気もするが、記憶が飛び飛びで、定かでない。