内発的報酬


場合によってはいかなる報酬も伴わないのに、その人内部にこみ上げてくる喜びや楽しさ。

未来において期待できるどんなに素晴らしいと思える要素にさえ執着することなく、今現在が既にその人にとって報酬である、または喜びであるとあくまでも自然に感じることができる時、人は幸せなのだと思う。

恐らく当の本人にはその自覚さえない。


「○○○が△△△になれば幸せ」


とか


「今○○○が□□□だから不幸」


という思考の先に幸せはありえない。なぜならその条件が達成されたところで、その思考様式では常に「条件付き」の幸せを追い続ける習慣になっているからだ。


ところが、フロー状態にあるとき、未来にも当然幸せは待っている。しかし現代社会で誰もが常にこのフロー状態になれるわけではない。ではどうしたらいいか。


それは意識的に無条件に今現在を「幸せ」と思う。決して無理矢理ではない。小さな幸せを見ようと思えばいくらでもある。


しかし・・・この考え方はある程度健康であるという条件の上に成り立つというもろさを否定できない。



マズローの5段階欲求説にも近いものがあるが、人間の満足には段階があって、


(1)身体的満足 (食べもの、お酒、セックスなどなど)

(2)頭の満足 (頭で追い求めたもの、地位、お金、名誉、などの「外発的報酬」)

(3)心の満足 (外部からの評価や賞賛を必要としない、喜びや楽しみで心の底まで満たされる状態)

(4)魂の満足 (自意識の満足を超え、超意識・真我の満足、至高体験など)

という具合に深まってゆくという。


それにしても、残念ながら今の日本社会では学校でも社会でもある程度の「報酬」を条件にした動機付けを当たり前にしているように思える。


だからこそ、そうではないものの見方に目を向けるのも大事だと思う


冬って活動意欲が減退しちゃいます

毎度です

今年は寒い冬だと言う人がいますが

普通に冬の秋田市です

確かに雪の量は若干多め

でも秋田市はこんなもんでしょう

雪が少ないと

今年は雪が少ないだの暖冬だのって言います

「冬だもの。こんたもんだべ」

今までだってこれ以上の冬は何度もありました



秋田・女性専用出張リンパケアエステー 天使の指先 ☆:*:・°


でも県南のみなさん!

記録的な豪雪の中、本当にご苦労様

秋田市は普通の冬です

猛吹雪が多い訳でもないですし水道管も凍りません

でも、今朝はがんがん降ってます

積もりそうです

この雪、いつとけるんだろう

憂鬱です

これから2月が冬マックス

でも、この雪がとければ春です

雪が深ければ深いほど

春がきて土が見えた時の喜びは大きかったです

本当にあの土が見えて土の香りを感じたときの感慨

でも今は冬でしんどいですよね

現状に目をつむったり逃げたりする訳ではありません

春は必ず来ます

誰にも訪れます

冬の次は春なんです


スコップもって外さ出て

「いや~、しったげ積もったごど。へばやるが~(笑)」

汗かいて、部屋さ戻れば眼鏡くもって(笑)

そして飲む熱いコーヒーがまた旨いこと旨いこと

家を買うとき


きっと誰でもその先の幸せや平凡を願うことでしょう


ところが


家を買ったことによって


様々なゆがみが表面化する場合も少なくない


特に夫婦問題をこじらせる方々が少なからずいらっしゃる


私が知るだけでも相当数いらっしゃるのですから


聞こえてこない


または外部に漏れていない方々もまたいらっしゃることでしょう



いったい何故?


当然「お金」の問題もあるでしょう


また「家」というものに何かしらのエネルギーが存在するのでしょう


次回は家にからむ「お金」と「夫婦問題」について


その次は「家」のエネルギーと「夫婦問題」について


考えてみたいと思います



だてなおと

かんなおと

・・・・

ま、それはさておき、新たな風がいよいよふいてきたのでしょうか。

いつの頃からか、人はより多くのモノやお金を得ることに成功の価値判断を置くようになりました。お金や資産の量によってその人の人間性まで判断しようという風潮も否定できないでしょう。

より多くのモノやお金を集め、それを保持しようとする心理の裏側に「不安」というものが少なからずあるのではないでしょうか。確かに太古の昔より気候変動などで食物収穫量が激減すれば生命の危機に迫られ社会的にも大打撃を受けるでしょう。また強奪の危険もあるでしょう。

ですからより多くのモノやお金を集める能力を否定する訳ではありません。

東京時代のメンターに教えられました。

最悪を予想し
最善を期待し
中庸を行け!



昨年末にランドセルのプレゼントがあり、今その輪が広がりつつある。そんな中で32000円の寄付もあったと聞きます。

この数字、決して裕福な人の金額ではありませんよね。分け与えられる最大限のお金だったのではないでしょうか。

赤い羽根の募金活動は実態が見えにくい。私が勉強不足なのかもしれませんが実感です。

「神との対話」という本に人類の未来予想図が描かれていました。その社会ではモノやお金の保有に固執するという考え方は人々はもちろん、社会そのものにもありません。例えば経済的判断は、どれだけ持っているかではなく、どれだけ与えてきたか。この一点にかかわると。

その他にも事細かく描写されていたのですが、単純な私はそのどれも一字一句疑わず、絵空事ではなく、そうなるんだろうなと思いながら読みすすめました。

2012年は人類大変革の時だと説く人たちがいます。いずれの「なおと」さんもその礎なのではないかと思いたいです。

無くても与える。与えるのはモノだけではないはずです。

そして出したものは必ず返ってくる。形を変えてでも同質のものが返ってくるのです。言葉や心、感情、そして物理的なモノに至るまでその法則から逃れることはできないでしょう。

共産主義とは根底を異にする、「与える」という概念を念頭におく社会が地球上の8割を超えたとき、その情緒豊かな世界が実現するのでしょう。

右肩上がりの前年対比に固執する古典的概念などどこかに消え去るでしょう。インフレもデフレという語句も単なる歴史上の概念となるのかもしれません。

もちろんそこには、国同士が争うなどという愚行も存在しません。


ジョン、あなたの見た夢はもうすぐ現実になるかもしれません

特に日本人というのは「秘すれば華」という言葉があるとおり、あからさまではない部分に美を感じることのできる民族なのかもしれません。


それはそれで奥ゆかしさがあり、私も大好きな感性のひとつです。


しかし反面、元来日本民族にはおおらかさもありました。万葉の歌を現代語に訳し状況を知ると赤面しそうな歌などもあります。江戸の民も時代こそ違え、おおらかさを持っていたのではないでしょうか。


「奥ゆかしさ」と「おおらかさ」のバランスがうまくとれていたのでしょうね。



さて、「快」か「不快」かを元にする行動原理。「不快」とはすなわち己の生命に直結または連想される事態への反応。ある意味能動的です。


一方「快」の方は静的な部分もあります。一見何事もなく何も感じないような時、それは実は「快」の状況なのかもしれません。しかし人はそれを当たり前のことにしたります。また一時は「快」と認識しつつも、慣れてくるとさらなる「快」を求めて刺激を欲します。


特に性的な「快」に関することには時に社会は戒めることがあります。親・兄弟・友人その他、また法を管理する一社会がそれを監視しています。そして個人も自らを戒め、欲望の暴走が起きないようにセーブします。


ところが、この「快」を抑えすぎると抑圧になり歪みが生じます。


「快」を求め、その中に生き物としての喜びを大いに感じ生きるエネルギーを増幅するようにプログラミングされてる遺伝子を持つ私たち人間。健全な形でそれを体験し具現化できれば何も問題はないのでしょう。


しかしそうもいかないのが世の中というもの。だからガマンが大切なのだと年輩者の声が聞こえてきそうです。


あくまでも想像なのですが、「不快」経験値が増えれば増えるほど「快」への欲求は高まるのではないでしょうか。さらにその欲求が抑えられれば抑えられるほど歪みは大きくなるのではないでしょうか。


私は思います。ささやかな「快」が目の前にあるのであれば、それを積極的に享受したほうがいいと。その積み重ねが大きな「快」すなわち「幸せ」につながるのだと思います。そして恐らくその「快」は歪んだ欲望を表面的に発散したときの快楽とは比べものにならないくらい深く大きなものなのではないかと思います。


社会の枠組みから解放され、生き物としての悦びを感じてもいい時間というのも必要だと思うんです。鎧をはずし、自分らしくいられる時間。仮面も肩書きも不要な世界。己をさらけ出せる空間、必要だと思います。



「秘すれば華」


実はこれさえも真の己を強烈に認識できることに繋がる「おおらかさ」があってこその健全な美意識なのかもしれません